第三章 オベリスクの建造

1. エジプト統一の王は3人いた

. . エジプトを統一した王の名前はナルメル、メネス、アハの三つが挙げられている。しかし、考古学では上下エジプトの何方かが他方を武力で征服したと考えるから統一の王は一人でなければならない。従って、これらの名前は同一人の名前であると考える。実際は和平による対等合併であるから二人居るのである。前章13節で述べたようにナルメルは王の名前ではないと考えられるから下エジプト王の名前は不明とする。上エジプト王はメネスと考えるのが妥当であろう。メネスとアハは同一人物との説もあるが、その場合、第一王朝初代の王は上エジプト王メネスと言うことになり、上下エジプトは対等という要件に反し、王を一人にするのは次の世代からとする約束にも反している。上下エジプト王が同時に没することはありえないから、先ず、上エジプト王メネスが没し、その息子アハが上エジプト王代理となり、下エジプト王も没した後にアハが第一王朝初代の王となったと考えるのが妥当である。上エジプト王メネスと下エジプト王の二人は実際にエジプトを統一した王であり、アハは上エジプト王代理及び統一エジプト王朝初代の王であり、少しづつその意味は異なるが、これら三人の王は一言で言えば皆エジプト統一の王である。ヒエログリフはこれ等の王名表示を少しづつ区別しているのではないだろうか。例えば、日本の将棋には二つの王将があるが、下手の王将は点を付けて玉将としているように。
. . 上エジプト王メネスと下エジプト王はエジプト統一に際し、次の世代から王を一人にするためには王家を一つにしなければならないと考えた。その王家は両王の権威権力を等しく継承するものでなければならない。その為、各王は自らの権威権力を二等分し、その一つを王冠に托して娘の一人に授け、他の一つを王座に託して息子の一人に授けた。これらは血統書に相当するものであり、王座は王となる資格を表し、王冠は資格のあるものを王位に付ける権限を表す。王座を表す実物は椅子ではなく、王冠と対になる屈折ピラミッドを小さな模型にしたものでベンベン石と呼ばれている。一方の王の息子と他方の王の娘が結婚して上エジプト王と下エジプト王の権威権力を50%づつ引き継いだ王家が誕生する。残った王座を持つ男子と王冠を持つ女子が結婚すると王家が二つになるのでこの結婚は認められない。この王座を持つ男子は王冠を持たない女子と結婚して王座を一人の息子に授け、王冠を持つ女子は王座を持たない男子と結婚して王冠を一人の娘に授けることにより予備として王座と王冠を後世に引き継ぐ。
. . 上エジプト王メネスが没したことによりその息子アハが上エジプト王代理に就いた。この時アハが下エジプト王の娘と結婚したかどうかは不明であるが、それは約束されたことであり、遅くても、下エジプト王が没した時には結婚して第一王朝初代の王となった。彼は統一王朝の初代王になったことを顕示するために何かを建造するべきだと考えた。熟慮の結果、自分は上下エジプトを統一した二人の王に認められた王であり、二人の王を崇拝していることを示す施設を建造することにした。自分が統一王朝の王になることは上エジプトでは周知のことであるからその施設は下エジプトに建造すべきであると考え、ヘリオポリスの広い敷地の奥まった位置に二人の王を表す御神体としてベンベン石を据えて二人の王を祭った。これが太陽神殿の起原であり、ベンベン石が聖石と言われる理由であるが、いわゆる太陽神殿にある付属的な構造体は造られなかった。その理由はピラミッド建造に見られる上エジプト王と下エジプト王の考え方の違いにある。下エジプト王は大自然の観測結果から大地の構造を推測してその模型としてピラミッドを建造したのであるが、上エジプト王は、下エジプトのピラミッドは太陽光線がエジプトを砂漠に変えるのを防ぐ仮想構造体であると考えて太陽光線を意味するピラミッドを建造したのであり、抽象的な考えを具体的な構造体で表すのが彼等の考え方である。アハ王は二人の王に認められた王であり二人の王を崇拝しているという抽象的な考えをベンベン石を御神体として祭ることで具体化したのであり、いわゆる太陽神殿にある付帯的な構造体は必要でなかったのである。
. . 王位争奪の戦のない平和な時代になっても、次の王となるためには何らかの業績をあげることが求められる。第一王朝二代目のジェル王は第一キャタラクトのあるアスワンを越えて南に遠征し、第二キャタラクトに達したことを示す碑文が第二キャタラクトに残されているという。次のジェト王はシナイ半島に遠征し、その功績を記す碑文がシナイ半島にあるという。更に、太陽の昇る東の地や太陽の沈む西の地を目指して多くの探検隊が還ることの保証されない探検に出かけた。これが王位継承者が居なくなり王朝が途絶える一つの原因ともなる。太陽の沈む地を目指して地中海及び大西洋を経てメキシコ湾に達した一団があった。船を失った彼等はメキシコに土着したが、死期が近づくに連れエジプトに帰りたい、エジプトに葬られたいとの思いが募り、ベンベン石を祭った神殿を模した広い神域の奥まった位置にピラミッドを据えた施設を造った。これはラ・ベンタの遺跡として知られており、もっと後の時代のオルメカ文化の遺跡と言われているが、そのピラミッドにはもっと古い時代の火山噴火による溶岩流の影響が見られるものがあるとも言われる。
. . アハ王は下エジプト王の娘である王妃との間にできた息子の一人に自分の受け継いだ権威権力を二等分してその一を与え、娘の一人に残りの一を与えた。アハ王の受け継いだ権威権力は上エジプト王メネスと下エジプト王の権威権力の50%づつからなるから、それを二等分した王座と王冠は共に上エジプト王メネスの権威権力を25%、下エジプト王の権威権力を25%受け継いでいる。アハ王が没して息子ジェルが王位を継ぐことになるが、上エジプト王の娘の王冠を予備として受け継いできた女性と結婚すると、上エジプト王メネスの権威権力を75%、下エジプト王の権威権力を25%受け継ぐことになり対等という要件に反する。対等という要件を満たすためにはアハ王と王妃の間に生まれた息子と娘が結婚しなければならないのであり、これによりジェルは上エジプト王メネスの権威権力と下エジプト王の権威権力を50%づつ受け継いだ第一王朝二代目の王となる。この対等という要件があるために王朝継続のためには王と王妃の間に生まれた兄妹又は姉弟の結婚による王位継承が必須となったのである。そして、これが遺伝的な問題を生じ、王朝を継承する者の途絶える原因となる。
. . 第一王朝初代のアハ王はエジプトを統一した二人の王に認められて王となったのであるから二人の王を祭る神殿を建造したが、二代目ジェル王はアハ王に認められて王となったのであるからエジプトを統一した二人の王を祭る神殿は建造しない。三代目ジェト以降も同様に王位継承が行われ、この神殿は建造しない。このようにして約250年続いた第一王朝もその継承者が途絶える時が訪れる。その後の王朝の推移を見るとこの時途絶えたのは王座を継ぐ男子である。この時王冠をついだ女子が予備の王座を持つ男子と結婚すると、先に述べたように、エジプトを統一した二人の王の権威権力を等しく受け継ぐという要件に反する。従って、この王冠は予備に回ることになる。
. . この王冠は下エジプト王から受け継がれた王冠であるから下エジプト系王冠と呼ぶ。今まで予備であった王冠は上エジプト王メネスから受け継がれた王冠であるから上エジプト系王冠と呼ぶことにする。今まで予備であった下エジプト王から受け継がれた王座を持つ男子と予備であった上エジプト系王冠を持つ女子が結婚して、エジプトを統一した二人の王の権威権力を等しく受け継いだ第二王朝が誕生する。そして、エジプトを統一した二人の王に認められた王であることを顕示するために二人の王を祭る神殿を上エジプトのアブ・シールに建造する。この神殿は第五王朝初代のウセルカフ王の太陽神殿と呼ばれている。彼がこれを修復したという事実はあるかもしれないが、これが第二王朝初代の王の建造であることはその構造の意味を正しく理解すれば明らかである。この神殿の奥まった位置にある台座にはベンベン石を模したずんぐりしたオベリスクが据えられていたという。実際は下エジプト王から受け継いだベンベン石であると思われるが、今は実物は失われており、又、付帯建造物もその後が残されているのみであるという。しかし、この神殿を模したと思われる太陽神殿がアブ・グラブにある。この神殿も第五王朝のネウセルラー王の建造とされているが、河岸神殿やその周りの付帯建造物はそうかもしれないが上神殿は修復の事実はあってもネウセルラー王の建造ではない。何故なら、御神体であるオベリスクの設計には屈折ピラミッドの設計手法が用いられているが、エジプト統一から500年を越えてそれが正しく伝えられることは考えられないからである。又、第五王朝の時代には御神体は階段オベリスクでなければならないのである。
Fig1_1
Fig. 1.1
. . Fig. 1.1に吉村作治著から写したこの上神殿を示す。この上神殿の奥まった位置にはピラミッドを低い位置で切断した形の20mの高さの台座の上にこのオベリスクが据えられている。この台座はアスワンにある第一キャタラクトを表し、その上にオベリスクを据えて上部の山岳地帯を表し、アスワン地方の山岳部の地形が第一キャタラクトの位置で階段構造になっていることを表している。台座の前の西よりにある黒く塗りつぶした長方形の部分は大屠殺場とあるが、これはナイルを表している。オベリスクの西側の台座の上面にも黒く塗りつぶした長方形があるが、これは第一キャタラクトで形成された湖状のナイル上流を表す。台座の下の西側にある黒く塗りつぶした四角形は小屠殺場とあるが、これはナブタのオアシスを表している。その手前にはナイルに沿って小さな四角形がいくつも描かれているが、これらは西部砂漠にナイルに沿うように点在する小さなオアシスを表している。これらは、これらオアシスに住む者もナイルの水を飲む者であることを表す。台座の前の広場はナイル東岸の平坦地を表す。その東側は高い塀の上に造られた回廊といわれるもので囲まれている。これは東部の砂漠と山脈、及び、その東側が断崖状に急峻に海に落ちている海岸線を表している。更に、神殿全体も塀で囲むことによりエジプトのある大地はこの様な海岸線で囲まれていることを表している。第二王朝初代の王が建造した神殿は台座の上にはベンベン石が据えられていたことを除きほぼ同様な構造であったと思われる。
. . 第一王朝、第二王朝の初代の王だけがエジプトを統一した二人の王を祭るベンベン石を据えた神殿を建造したことにより、その後の各王朝の初代王がオベリスクを御神体とした神殿を建造するしきたりができた。そして、100年ほどで第二王朝が途絶えると、第三王朝初代の王がFig. 1.1の腰高なオベリスクを御神体として据えたアブ・グラブの太陽神殿を建造した。これを建造した王はサナクト王であるが、彼の名は多くのエジプト年表からは消され、第三王朝初代の王は弟のジョセルであるとされている。その理由は次節に述べるが、サナクトの王位継承には少し問題があったのである。
. . 第二王朝で途絶えたのも王座を受け継ぐ男子だった。もし、途絶えたのが王冠を受け継ぐ女子だったら、第二王朝最後の王座を受け継いだ男子は予備である下エジプト系王冠を受け継いだ女子と結婚して王になることができた。この王はエジプトを統一した二人の王の権威権力を等しく50%づつ受け継いでいるから、第三王朝も初期王朝時代に含まれることになる。しかし、実際は初期王朝時代は第二王朝迄であるからこの仮定は成立しない。従って、第二王朝最後の上エジプト系王冠と予備である下エジプト系王冠が古王国時代へと受け継がれる。第三王朝から第六王朝迄の古王国時代はこの王冠を持つ女性と結婚した者が王になる時代であり、この慣習は後の時代にヨーロッパに伝わった戴冠式の元になる。古王国時代はエジプトを統一した二人の王の権威権力を等しく25%づつ受け継いだ時代である。その最後の第六王朝で二つの王冠も途絶えてしまう。王座及び王冠という血統書を失ったエジプトは、ノモスの首長として各地に散在する王族達が皆王となる資格と権利を主張することとなり、分裂の時代へと突入していく。

2. サナクトのオベリスク設計

. . 第二王朝最後の王が上エジプト系王冠を受け継いだ姉又は妹と結婚して王位を継いだとき、予備である下エジプト系王冠を受け継いだ女性はこの世代における予備の役割は終えたことになり、次の世代の予備として下エジプト系王冠を引き継ぐ準備に入らなければならない。その為結婚した相手がサナクトであり、サナクトは王位継承資格としての血統書に相当するベンベン石を所持していない。間もなく王が没するが、この時、上エジプト系王冠を受け継いだ娘はいたが、王と王妃の間に息子がいなかった。当然に、次の世代は新王朝になるのであるが、上エジプト系王冠を受け継いだ娘の結婚相手も王位継承資格としての血統書に相当するベンベン石を所持していない。従って、王家が二つになってしまい、何方に王位継承権があるか判断する根拠がなく、継承権争いが生ずる。古王国時代の第三王朝から第六王朝迄は王朝交代時にはこの問題が避けられなくなったのである。
. . 上エジプト系王冠を所持する王族側は前王の直系を理由に権力の継続を主張し、サナクトはこれから結婚する者よりも、王が没したときに既に結婚している者に自動的に王位が移ると主張し、結局サナクトの主張が通り、上エジプト系王冠は予備に廻ることになった。この予備となった上エジプト系王冠を持つ女性と結婚したのがサナクトの弟ジョセルである。第三王朝を立ち上げたサナクトの王位継承には一見問題はないように見えるが、実は大きな問題を含んでいるのである。第一王朝は上エジプト系王族と下エジプト系王冠を持つ女性との結婚、第二王朝は下エジプト系王族と上エジプト系王冠を持つ女性との結婚であり、上下エジプトは対等という要件を満たしている。しかし、サナクトの結婚は予備としての下エジプト系王冠を次の世代に引き継ぐためであるから対等という要件は必要でなく、サナクトは下エジプト系王冠を持つ女性に身近な下エジプト系王族なのである。従って、サナクトの王位継承は上下エジプトは対等という要件に反する結果となった。そして、サナクトが没すると下エジプト系王冠は予備に戻り、上エジプト系王冠を持つ女性と既に結婚している弟のジョセルに王位継承権は移り新王朝を立ち上げることになる。後の時代になると、一代で終わったサナクトの王位継承は王朝とは見做されず、次の世代に王位を引き継ぐ準備が出来る迄の一時的な中継ぎと見做されることとなり、第三王朝初代の王は弟のジョセルとされ、サナクトは多くの年表から消されてしまうのである。この様な一時的な中継ぎと見做される王位継承は第四王朝以降にも見られる。
. . サナクトは当然に新王朝を立ち上げたと思っているのであるから、エジプトを統一した二人の王を祭る神殿を建造した。彼は、ベンベン石の原型である屈折ピラミッドは太陽光線の二重構造を表し、その底面にエジプトが入ると夏になり、その外側の屈折部より上の斜面の延長が地面と交わる範囲にエジプトが入ると冬になることを示すと考えた。しかし、季節を太陽光線の二重構造で考えるとき、夏の強い太陽光線の範囲と冬の弱い太陽光線の範囲をもっと現実に即したものにするべきである。更に、エジプトには春夏秋冬の四季があるが、春と秋は日南中高度は同じ範囲にあるから太陽光線の強度の範囲は三つに分けるべきであると考えた。真夏の太陽の南中高度はアスワン近辺においてほぼ90°であり屈折ピラミッドの中心線より右の部分がエジプトを季節に従って走査する。エジプトの地中海沿岸はほぼ北緯31°30'であるから、冬の太陽の南中高度に垂直な角度は23°27'を加えた約55°である。これは、太陽が最南端にある時、太陽から大地に下ろした垂線に対して北側に測った中心角でもある。この範囲の太陽光線がエジプトを一年かけて走査するのであるから、3で割った18°が夏、春と秋、冬の太陽光線の範囲である。それぞれの範囲の中心の光線は範囲の境界からの光線である。これ等太陽光線の区分を大地に対する南中高度で示すと、夏の範囲は81°を中心に90°から72°迄、春と秋の範囲は63°を中心に72°から54°迄、冬の範囲は45°を中心に54°から36°迄となる。これ等を基にサナクトの行った太陽光線の構造の設計図をFig. 2.1に示す。
Fig2_1
Fig. 2.1
Fig2_2
Fig. 2.2
. . 水平線で表した大地のA点は夏に太陽が真上に来るアスワンの南方北緯23°27'の地点であり、冬に太陽が南回帰線上のWに来る迄に46°54'回転するから、その日南中高度は43°6'である。第一章7節に述べたように、中心角の円弧長1°Lを単位として円の半径を測ると円の大きさとは無関係に57.296°Lであるから、これはAを中心に回転する太陽迄の距離を表す。この半径を1°L=1mに縮尺すると、AWの距離は57.296mである。M点は屈折ピラミッドの下部の斜面角度を決定したと考えられる地点、サイス、メンデス、タニスであり、その北緯はほぼ31°であるから北回帰線の北緯23°27'を加えた54°27'が斜面の角度、即ち、太陽がWにある時の日南中高度に直角な角度である。従って、これに直角な35°33'がMにおける日南中高度である。Wを通るこの角度の直線が大地と交わる点がMである。太陽が北回帰線にある時、南中の太陽の平行光線は赤道面に対して23°27'であり、地面に垂直な直線との角度はA点でであるから、北緯31°のM点では23°27'を引いた7°33'となる。従って、∠AVM=7°33'である。又、図より明らかに∠AWM=7°33'である。円弧又はその弦に対する円周角は等しいという定理により、Vは線分AMを弦としてWを通る円の円周上にある。∠WMVは円弧WVに対する円周角であり、同じ円弧に対する円周角∠WAV=46°54'に等しい。太陽の一年間の回転角度はA点でもM点でも46°54'であるのはこれが理由であると彼は考えた。更に、彼は弦AM上の何処でも、従って、エジプトの何処でも46°54'であると考えた。厳密には、弦ではなく円弧AM上の点でなければならないが、その違いは同図で線一本分程度であり、コンパスと定規を用いた手作業の製図では弦AMと円弧AMの違いを見出せなかったであろう。
. . 日南中高度だけを見ると、太陽は真夏にはV点にあるように見えるが、それでは太陽迄の距離が冬と夏で著しく違い、太陽がA点を中心に回転していることにならない。彼は、Aを中心にWから描いた円弧がAに立てた垂直線と交わる点Tが真夏の太陽の実際の位置であるが、A点から日南中高度が81°のB点迄は太陽はVにあるのと同じ光線を出していると考えたのである。それを示すのが線分LJで示す斜面である。彼は、蝋燭や松明に反射鏡をつけて、懐中電灯や自動車の前照灯のように指向性のある明かりを作れることから太陽は同様の光線を発する構造を持つと考えたのである。実際に太陽のあるTがオベリスク頂点であり、高さは57.296mである。実測値は台座が20m、オベリスクが36mとされているから56mである。
. . Mにおける南中高度82°27'を示す光線は太陽がWにあるときはCWであり、C点は太陽がTにある時は直線WTと平行な直線が直線VMと交わるQ点に移る。この点を通る水平線が台座の上面であり、その高さはIA=20.343mである。従って、オベリスクの設計高さはTI=36.953mとなる。直線WTの延長線が光線VBと交わる点Sを通る南中高度72°を示す直線が台座の斜面GEを表し、台座は夏の太陽光線の範囲、南中高度90°から72°の光線を表す。更に、直線ESの延長が垂線AVと交わる点Pに南中高度72°の光線の光源があり、この光線から南中高度81°迄の光線の光源は垂線PV上にあり、点Sを通って大地に至ることを表す。点Tより引いた南中高度45°の光線を示す直線が直線VBと交わる点Lを通る水平線KLは頂上部四角錐の底面を表す。これは、45°より低い南中高度の光線は実際に太陽がある点Tより発せられることを示す。又、南中高度が45°より高く72°より低い光線は、光源が垂線TP上にあり、点Lを通って大地を照射することを表す。
. . 以上の設計を纏めると、太陽光線は四種類の光線で構成されていて、太陽の実在位置に光源がある南中高度45°以下の光線、点Lに光源があるように見える南中高度45°以上で72°以下の光線、点Sに光源があるように見える南中高度72°以上81°以下の光線、点Vに光源があるように見える南中高度81°以上の光線により構成されている。この様な光線構造を持つ太陽がアスワン上空にある状態を自然が模型化したものが第一キャタラクト及びその上部の山岳地帯であるとサナクトは考え、更に、これ等の光線の境界を斜面の角度で表した構造で山岳地帯の縮小模型としたのがオベリスク及びその台座である。
. . オベリスクの各部の寸法については台座の高さとオベリスクの高さ以外は明らかにされていないので、前節のFig. 1.1のオベリスクで測った結果をFig. 2.2に示した。同図は立体図であるため、オベリスクの底面や台座の上面及び下面等の一辺の長さは正しく測れないので対角線の長さの比で比較をした。両者は同図に記入したようによく一致している。しかし、オベリスク下部の稜線の長さLJと台座の稜線の長さGEの比はかなり違いがある。これはFig. 2.2が正しく描かれていないことによるものであり、図に示すように、台座の上面と下面の対角線にオベリスクの頂点からほぼ垂直な線を下ろすと各部の高さを推測できるが、台座の高さを20mとするとオベリスクの高さは47.4mとなり、実際よりも11mも高い図を描いているからである。

3. フニとスネフルの階段オベリスク設計

. . サナクトが没したとき、上エジプト系王冠を所持する女性と既に結婚していた弟のジョセルに王位は自動的に移った。ジョセルはサナクトの子ではないし、王冠も上エジプト系王冠に変わったのであるから新王朝を立ち上げたことになる。従って、ジョセル及びそれに続く各代の王はサナクトが第二王朝最後の王でジョセルが第三王朝を立ち上げたと考えていた。当然に、ジョセルはオベリスクを御神体としたエジプト統一の二人の王を祭る神殿を建造したが、ここから第三王朝の各代の王はこの神殿を建造する慣習に変わった。第三王朝の王は四人であり、ベンベン石を御神体とした第二王朝初代の王及びサナクトの六人の王がこの神殿を建造した。考古学では最初の二つの神殿を建造したのは第五王朝のウセルカフ王とネウセルラー王であるとしているから、未だ四つの神殿が未発見としているが、実際は既に全部発見されているのである。これ等の神殿が第五王朝に建造されたという説は、第五王朝には他に何人もの王がいるのになぜ六人だけが神殿を建造したのか、残りの四人は誰か、神殿の意味は何か等全く説明できない。そこには分からないものは神事という考古学の常套手段しか見られない。
. . アスワン上流の第二キャタラクトを発見したのは第一王朝二代目のジェル王であり、それからほぼ300年を経たジョセルの時代には第二キャタラクトの存在は十分に知れ渡っていた。サナクトのオベリスクの台座が第一キャタラクトを表すことから、ジョセルはアスワン地方の山岳部をより現実的に表すため台座を二段にしたオベリスクを建造した。しかし、後の時代に階段ピラミッドと呼ばれるものに増築されてしまったため原形を見ることは出来ない。考古学ではこの時建造されたものはマスタバであるとしているが、解体して確認したわけではなく、何の証拠もない。考古学では、ピラミッドは王墓であると何の証拠もなく断定し、当時、地上に建造物を持つ墓はマスタバであるからジョセルの建造したものもマスタバに違いないと推測したに過ぎない。ピラミッドが王墓でないことは第二章に示した各ピラミッドの設計、及び、それから導かれる歴史上の諸事情と史実の一致を見れば明らかである。従って、ジョセルが建造したものがマスタバであるという主張の根拠は全くなく、それは台座が二段のオベリスクである。
. . ジョセルに続く二代目及び三代目の王も二段又は三段の階段ピラミッドを建造したとされ、それらは不完全ながら発見されている。二段の階段ピラミッドは台座が二段でオベリスク本体が失われたものである。三段の階段ピラミッドは台座が二段で、オベリスク本体が屈折ピラミッドのようなずんぐりした形か、上部が崩れて根元の一分だけ残っているため三段に見えるものである。この時代又は第四王朝時代にエジプトを出発した探検隊がアフリカ南端を廻って南大西洋を渡り、アマゾンを遡り、アンデス山脈を越えて南アメリカ西岸に達した。彼等がここに発展させたのがインカ文明である。インカ文明が文字を持たないのは彼等が辿ってきた道程に理由がある。四大文明地といわれるエジプト以外のメソポタミア、インダス、黄河には元々それぞれの文明があり、探検隊のもたらしたエジプト文明を取り入れて一層その文明を発展させたのであるが、アマゾン流域にも、アンデス山脈にも、南アメリカ西岸にも文明と呼ばれる程のものは殆どなかった。探検隊の中で文字を知るものはごく一部の上流階級だけであり、彼等は300年以上に及ぶ近親結婚の弊害から体力的に劣り、過酷な道程に耐えられなかった。残った者たちは各地の現地人と合流して規模を拡大していくが、文字文明は失われ、代わりに大量の黄金を得た。彼等の文明に文字は必要なかったのである。やがて、彼等にも故郷エジプトを偲ぶときが訪れ、彼等の出発時のエジプトの象徴である三段の階段ピラミッドを建造する。
. . 第三王朝最後のフニ王は他の王とは異なり、台座が一段でオベリスクにも一段階段を付けたオベリスクを建造した。その設計の基になったのは前節のFig. 2.1に示したサナクトの設計図である。同図のSを通る仰角72°の直線とTを通る仰角45°の直線の交点から水平線を引いてオベリスク頂上部に一段階段を造ると、Fig. 3.1に示すように、72°の斜面を持つ一段の階段オベリスクとなる。更に、台座FGを横に広げれば崩れピラミッドと呼ばれるものに極めて良く似た構造となる。フニ王の建造したのはこの様なオベリスクであると推測されるが、息子のスネフルが第四王朝を立ち上げた際に、オベリスクを二段に増築し、それに伴って台座も拡張しているため原形を見ることは出来ない。
Fig3_1
Fig. 3.1
Fig3_2
Fig. 3.2
Fig3_3
Fig. 3.3
. . この二段の階段オベリスクは異形ピラミッド又は崩れピラミッドと呼ばれ、四角錐の真性ピラミッドが風化により崩れたものとされている。Fig. 3.2に仁田三夫編著古代エジプト1から複写した写真を示す。光の当たっている右斜面が南斜面で、日影の斜面が西斜面のようであり、西側頂上部の階段は三段であることを示している。同文献から複写したFig. 3.3に示す北から写した写真の頂上部では東側は二段に崩れている。これは、風化による崩れ方には方向性があることを示している。それなのに、その下の四方の斜面が刃物で削り取ったかのように一様に崩れることはあり得ない。これは元々この形をしているのであり、一段の台座と二段の階段オベリスクの頂上部の四角錐が失われて三段に見えるものである。第四王朝初代のスネフル王が第三王朝最後のフニ王の建造したオベリスクを一段増築したことにより、第五王朝初代の王は第三王朝初代のジョセルのオベリスクを増築した。その増築は、台座を二段から四段にし、オベリスクは屈折ピラミッドを更に扁平にしたようなものであったため、むしろ五段の階段ピラミッドに見えるものであった。その後の王朝初代の王は前王朝初代の建造物を増築する慣習に変わったのである。従って、六段の階段ピラミッドからジョセルに縁のものが発見されても六段の階段ピラミッドをジョセルが建造した証拠にはならない。後に述べるが、六段の階段ピラミッドはジョセルには建造できない理由がある。
. . スネフルの階段オベリスクの設計図をFig. 3.4に示す。基本的にはFig. 2.1のサナクトの設計に基づいているが、同図のM点は使わず、弦ABに対する角度が∠AWB=9°の円周角となる円と点Aにおける垂線との交点をVとし、72°及び63°の南中高度を示す光線も点Vから照射される点が異なる。太陽がAを中心にWからT迄回転するとき、Wからの光線WBは平行移動してTから照射され、点Bは直線WTと平行に移動して点Gに至る。点Bは地中海の中に相当するから点Gは夏にこの光線の照射する限界、即ち、大地の端に相当するとスネフルは考えた。第一ピラミッドは太古の大地の形状を表すからその端Gは第一ピラミッドの斜面である。点Gから−51°52'の直線を引き、Aを通る水平線との交点E及び点Aに対称な点Dを求めれば、線分DEは台座の底面の一辺を表し、その設計長さは144.14mであり実測値は144mとされている。又、点Gは台座の高さを与え、設計値は18.15mであるが実測値は不明である。
Fig3_4
Fig. 3.4
. .サナクトはTを頂点とする斜面角度45°の四角錐を持つオベリスクを設計した。フニは、太陽は点Bを中心として半径BWの円を描くようにも見えるから、点Aに立てた垂線とその円の交点Qを頂点とし、頂点から引いた−45°の直線が点Vからの−72°の直線と交わる点R迄を上部四角錐の斜面とし、−72°の直線の表す下部斜面を持つオベリスクを考えた。そして、上部四角錐の斜面に第二キャタラクトを表す階段面を造った。線分QRが点Vからの−81°の直線と交わる点から−81°又は−72°の直線を引き、点Rを通る水平線との交点N迄を階段壁、NRを階段面とした。このような高い位置に階段面を造った理由は、第一キャタラクトに比べて第二キャタラクトに至る道程は険しいので第二キャタラクトはずっと高い位置にあると考えたからである。
. . スネフルはこの階段オベリスクを更に増築した。フニの階段面のRを通る水平線を延長して南中高度63°を示す光線との交点をL、中心線AVに対する対象点をKとする。Lから仰角46°54'の直線を引き中心線AVとの交点をPとすれば、三角形PKLの部分がスネフルのオベリスクの頂上部四角錐である。K及びLから引いた仰角72°の直線が台座上面と交わる点をそれぞれH及びJとすれば、KH及びLJはオベリスク下部の斜面を表す。スネフルはこの頂上部四角錐の斜面に二段の階段を造ったのである。頂上部四角錐の底面KLを1段目の階段面とし、フニの頂上部四角錐の斜面QRと光線VBとの交点を通る水平線を二段目の階段面とし、それが斜面PLと交わる点より一段目の階段面迄仰角72°の階段壁を作る。フニの頂上部四角錐の頂点Qを通る水平線が斜面PLと交わる点より二段目の階段面迄仰角72°の階段壁を作る。かくて図に示すような一段の台座と二段の階段オベリスクが設計された。
. . このオベリスクの台座の底面からの設計高さAPは78.7mであるが、現在は、西側は頂上部四角錐の底面あたり、東側は二段目の階段面迄崩れて失われているので三段の階段に見える。三段目迄の設計高さは67.97mであるが現存する高さは65mとされている。各部の設計寸法は図示の通りであり、その実測値は同図の右上にFig. 3.2を実測した値を設計図のKLの値が同じになるように換算したものを示した。同図は西からの正面図ではなく、やや南よりから見た図であるが、その角度をθとしてその角度を求めると次のようになる。

d×cosθ=70.5....d×sinθ=8.8....θ=7.115°....cosθ=0.9923
従って、写真の横方向の測定値を正面からの測定値と看做したときの誤差は1%以下であり、写真による測定自体あまり精度の良いものではないので測定誤差の範囲である。設計値は実測値とよく一致するといってよい。
. . 台座の上面は第一キャタラクとを表し、オベリスクの頂上部階段の第一段面は第二キャタラクトを表し、第二段面は第三キャタラクトを表す。従って、フニ王の時代には第三キャタラクトが発見されたと考えられる。これを発見したのはスネフルではないだろうか。第四王朝も終わりの頃になると、このスネフルの階段オベリスクは台座が三段で、Pを頂点とする屈折ピラミッド型の小さなオベリスクが乗っているものと考えられるようになる。そして、この小さなオベリスクも第三キャタラクトより上の山頂部分を表すものと考えられるようになる。

4. 第四王朝の系図を解読する

. . 第四王朝の初代王をスネフルとするのは王との血縁から見て問題があるとする人達がいる。スネフルは、母親は王妃ではないがフニ王の息子であるから、ここで王朝を区切るのはおかしいと言うものである。この時代には、男子の血統書は既に失われているが、王朝が継続されるためには王と王妃の間の息子と娘の結婚が必須なのは変わらないのである。スネフルは王妃の息子ではないから第三王朝を継承することはできないのであり、ここから第四王朝とするのは正しいのである。しかし、第四王朝の王位継承には強い権力を持ったが故の強引な規則の逸脱が見られるようである。
. . 吉村作治著「古代エジプト講義録(上)」にはFig. 4.1のような系図が示されている。この系図には、王位継承権を持つ女性を王の血縁に置く書き変えを行っていると思われる点もあり、系図が正しいか疑問もあるが、この系図に基づいて第四王朝の王位継承の問題点、系図の疑問点について述べる。この系図では、原則として名前の横を結ぶ線が両者の結婚を意味し、その中間より下に出る線及びその分岐線の下に書かれた名前は両者の子を意味する。一部この原則に合わない所もあるが、その箇所において詳しく述べる。結婚を表す線が点線の場合は王位継承を伴わない第二婦人、第三婦人等との結婚を意味する。
Fig4_1
Fig. 4.1
. . この系図を見てすぐ気付くことは、何々一世とか二世とかの特別な名前を持つ女性の存在と、それらが系図の左側と右側の二系列に分かれていることである。左側の系列は上エジプト系王冠を受け継いでいる女性であり、右側の系列は下エジプト系王冠を受け継いでいる女性である。フニは上エジプト系王冠を受け継いだ第三王朝の大女王と結婚して王位に就いたことになっているが「大女王」は疑問である。第三王朝に女王の時代があったとする王名表や年表はないようであり、正常に継承されているのであるから、両者は兄妹または姉弟でなければならない。両者の間には娘ヘテプヘレス一世がいるが息子がいないので、母親違いのスネフルがヘテプヘレス一世と結婚して第四王朝を立ち上げたのであるが、スネフルの母親がメルサンク一世というのはおかしい。ここには、スネフルをフニ王と王位継承権を持つ女性との間の子にしたいという意図を持った書き変えがあると思われる。
. . 王位継承の結婚であるか否かは女性が血統書としての王冠を受け継いでいるか否かで決まるものであり、誰かが決めるものではない。二度王位継承をするのはおかしいから王位継承を伴わない結婚としたものと思われるが、第四王朝四代目のカフラーは三度王位継承をしたことになっており矛盾である。王位継承には「王家は一つでなければならない」と「上エジプトと下エジプトは対等である」と言う二つの要件が満たされなければならない。既に王となったフニ王と下エジプト系王冠を受け継いでいるメルサンク一世とが結婚することは、王家を二つにして両王家を一人の王が掛け持つことである。両方に息子と娘が生まれれば完全に王家は二つになる。フニ王とメルサンク一世の間に息子と娘が生まれたとしても王と王妃の子ではないから第三王朝の王としてフニ王の後を継ぐことはできない。第三王朝はフニ王で終わることは避け得ないのであり、フニ王にとって、敢てこの結婚をするメリットがない。メルサンク一世にとっても王妃となるチャンスを捨てることであり、メリットがない。スネフルが第四王朝初代の王になるためにフニ王の息子であることは必要でないから、母親がメルサンク一世であっても、フニ王とメルサンク一世が結婚した証拠にはならない。系図が正しいとすれば、下エジプト系王冠はメルサンク一世で途絶えたことになるが、カフラーを王位に就けたカメレルネプチ一世は下エジプト系王冠を受け継いでいなければならない。この間、下エジプト系王冠は予備として受け継がれているので、男子は王族である必要もないため系図が明らかでなく、王との血縁のみで王位継承を論ずる人達により書き変えられていると思われる。
. . スネフルとヘテプヘレス一世との間の息子クフが同じく両者の娘のメリティエテスと結婚して第四王朝二代目の王となるが、メリティエテスは特別な名前を貰っていない。これは、本来王冠を受け継ぐ筈の姉がメリティエテス誕生後に王位継承に携わることなく死亡したため、メリティエテスが代りに王冠を受け継いだことを示す。クフ王には兄がいるとされるが、その兄は王位を継ぐため姉の方と結婚した。しかし、その妻がスネフル王の在位中に死亡したため、兄は王位を継承できなかったと考えられる。クフ王とメリティエテス王妃の間には長女メルセンク二世と末娘ヘテプヘレス二世の二人が特別な名前を貰っているが、長女メルセンク二世は末娘が生まれる前に幼児死亡していることを示す。息子は三人いるが、長男バウフラと次男ダドホルは幼少時死亡、三男カワブは妹ヘテプヘレス二世と結婚して一女メルサンク三世をもうける。この部分の系図の書き方は原則から外れるが、ヘテプヘレス二世はクフ王の娘であり、カワブの娘でもあるということはあり得ないから両者を結ぶ線は結婚を意味し、その中間から水平に出る線は両者の子を意味する。
. . カワブはクフ王を継いで三代目の王となる筈であったが、メルサンク三世誕生後間もなく事故か何かにより20歳前後で死亡してしまった。この時、クフ王は未だ健在であったためカワブは王となること叶わずにこの世を去ったのである。これにより、第四王朝は二代目クフ王を最後として終わることが確定した。権力の絶頂期にあるクフ王にとって、これほど無念なことはなかったであろう。彼は王となること叶わずにこの世を去った我が子を哀れみ手厚く葬るとともに、自分の代で第四王朝が終わるのを避ける対策として、自分の王位を継ぐものは母親は違っても息子であればよく、その場合のみ楕円形のカルトゥーシュの使用が認められ、第四王朝は継続されるという決まりを強大な権力をもって決定した。これはエジプト統一の祖の決めた決まりを反古にするものであり、クフ王は慈愛のある王であるといわれる一方で神を冒涜したとも言われる理由である。
. . クフ王が没したとき、息子カフラーは未だ王位を継ぐには若すぎたので、カワブの妻であったヘテプヘレス二世と結婚したジェドエフラーが三代目の王となったが、ジェドエフラーはカルトゥーシュの使用を許されなかった。系図ではジェドエフラーはクフ王と"?B”で表す女性との子となっているが、これは誤りであろう。クフ王の兄という説もあるが、未だクフ王の在位中の結婚であっただろうし、メルサンク三世もカメレルネプチ一世も幼少であり、ヘテプヘレス二世が次期王妃となれることはほぼ確実であるから、在任期間の短くなることの明らかな、親より年の離れたクフ王の兄と彼女が結婚することは考えられない。ジェドエフラーはクフ王の兄の息子ではないだろうか。兄の息子に王位が移れば自分の息子カフラーが王となれる可能性はなくなることを恐れ、ジェドエフラーは中継ぎに過ぎず、カルトゥーシュの使用を認めないとの遺言を残したものと思われる。
. . ジェドエフラーの在位期間は短く、カフラーが四代目の王位を継ぐことになったが、系図では彼は三度王位継承の結婚をしたことになっている。通常ではこの様な継承は考えられないことであるが、この系図が正しいとすれば彼の王位継承は順調にはいかなかったことを示す。カフラーはメルサンク三世と結婚して王位継承を宣言した。しかし、第二王朝から第四王朝迄下エジプト系王族に王位を独占されてきた上エジプト系王族から王位継承無効との異議が出された。王位継承権を示す王冠は未だ母親のヘテプヘレス二世が所持していて、メルサンク三世は受け継いでいない。その証拠に、ヘテプヘレス二世と結婚したジェドエフラーが王位に就いているではないかというものである。そこで、カフラーは未亡人のヘテプヘレス二世と結婚して王位継承を宣言した。しかし、これにも王位継承無効との異議が出された。王位継承権は一度行使すると自動的に娘に移り、娘が生まれないか、死亡により居なくなれば消滅する。ヘテプヘレス二世はカワブと結婚したが、カワブは王となること叶わずに死亡したので王位継承権は行使されて居らず、娘のメルサンク三世は受け継いでいない。ジェドエフラーを王位に就けたことにより、ヘテプヘレス二世の持つ王位継承権は娘のネフェルヘテペスに移っているというものである。ネフェルヘテペスは未だ幼少であり、カフラーはやむなく下エジプト系王冠を受け継いでいるカメレルネプチ一世と結婚して王位継承を宣言した。この王位継承は上エジプトと下エジプトは対等という要件に反している。しかし、サナクトの例もあり、上エジプト系王族も中継ぎとしての王位継承としては認めざるを得なかった。
. . 中継ぎである筈のカフラーの王位は息子のメンカウラーが姉のカメレルネプチ二世と結婚して第四王朝五代目の王として引き継がれた。そして、カフラー以降王朝は完全に下エジプト系王朝となってしまった。おそらく上エジプト系王冠がネフェルヘテペスに娘が居ないことにより途絶えたものと思われる。第五王朝初代のウセルカフ王の王妃"?D"が不明であるのがそれを表している。メンカウラー王の息子シェプセスカフが妹のカントカウエと結婚して第四王朝六代目の王となるが、第四王朝はここで終わる。両者の息子が居なかったのであり、下エジプト系王冠を受け継いだ娘がウセルカフを第五王朝初代の王に就けた"?D"ではないだろうか。ウセルカフは予備としての上エジプト系王冠を受け継いだネフェルヘテペスと不明な男子との子であるからここから第五王朝となる。その後の第五王朝の系図は全くでたらめである。系図をそのまま読むと、二代目サフラー王と三代目ネフェリルカラー王は第四王朝最後のシェプセスカフ王とカントカウエ王妃の子"?F"の直系の兄弟であり、また、"?D"とカントカウエとの女同士の結婚で生まれた子"?E"の直系の兄弟でもあると言うことになり、全く意味をなしていない。ただ一つ残った王冠も第六王朝で途絶えることとなる。

5. クフ王の王墓の所在場所を予言する

. . エジプト王朝時代には王名表に記載のない王が何人もいて、それらは宗教上の理由により抹消されたとされるが、疑問である。前節の系図Fig. 4.1に示したように、予備としての王冠を受け継いだ女性も何々二世とか三世という特別な名前を持っている。勿論、その女性が死亡したため普通の名前を持つ妹が受け継いだ場合もあるであろう。これ等の女性と結婚する男性には特別制限はないが、王の兄弟や子である場合には何らかの記録が残っている場合もあるであろう。エジプト考古学はそれらを消された王と考えているものと思われる。エジプト考古学はその出発点を間違えているのがその原因である。ピラミッドが何であるかを全く理解していない。その結果、エジプト統一は武力による上エジプトの下エジプト征服であると考える。この様な考えに基づいたのでは、王朝継承の推移は単なる偶然的な歴史の流れでしかない。そして、消された王が何人も居ると考えざるを得ないのである。上エジプトと下エジプトは対等合併であるからこそ、既に述べたように、王朝継承の推移は必然的とも言える。消された王と誤解される男子は第一王朝から第四王朝までの王の数と同じくらい居るのである。
. . 消された王といわれる最も有名なものはツタンカーメンである。1922年にカーターが、多数の黄金の副葬品、金箔で飾られた四重の入れ子になった厨子、その中に納められた三重の入れ子になった人型王棺、その中に納められた黄金の王の仮面を着けた少年のミイラを埋葬した墓を発見したことで有名になった。しかし、そのような王が存在したという歴史的な証拠は何一つない。九歳で即位し、僅か十年の在位期間に宗教改革と言う偉業を成した偉大な王であるという。しかし、副葬品が極めて豪華である一方で、宗教改革前の名前を削っていれる等のけちくさいこともしている。名前が気に入らなければ新品に替えるのが普通である。王墓の規模も周りの他の王墓に比べて小さい。王の死が早すぎて準備が間に合わなかったため高官のために用意した墓を代用したという。偉大な王に対して随分と失礼な埋葬である。間に合わなかったとは、墓は王自身が造るものという考えによると思われるが、偉大な王であるなら後継者は二年かかろうが三年かかろうが盛大な葬儀をするのが普通ではないだろうか。墓は王自身が造るものという考えは、ピラミッドは王墓であるという考えに基づいている。ビラミッドの建造法も正しく理解していないため、建造には二十年以上もかかると推定している。これでは後継者はその在位期間の殆どを前任者の墓造りに費やすことになる。それは考えられないから、墓は自分自身で造るという考えになる。しかし、前章において、ピラミッドの意味とその設計法を詳細に示したように、ピラミッドは王墓ではない。従って、墓は王自身が造るものという考えは成立しない。
. . カーターがツタンカーメンなる王の墓を発見する十五年程前に、そこより13m程離れた場所で、エアトン等がツタンカーメンと記された副葬品を納めた見窄らしい墓を発見している。それは偽ものであると考えていたカーターは、自分の発見した墓にその印がないことに困惑し、扉に小さな穴を開けて内部が盗掘されていないことを確認した上で、スポンサーであるカーナボン卿の到着を待つとの理由をつけて埋め戻してしまった。但し、完全な埋め戻しではなく、入り口の近くを埋め戻しただけで、こっそりと侵入する穴を掘ることは簡単であった。彼の手記には「扉には王家の墓の印はあるが王名の印はなかった。二週間後カーナボン卿が到着して再度綿密に調べたら、前には調べなかった下の方にツタンカーメンの印を発見した。また、盗掘坑もあることが分かったが、副葬品は殆ど無事であった。」とあるという。これは、第一ピラミッド内部には建造者を示す印や文字は一切ないと長い間言われていたが、ある時ずっと奥の方から小さな部屋が発見され、そこにクフ王という印が見つかったというのと全く同じ証拠偽造の手口である。カーターは埋め戻した後に盗掘坑を掘って墓の内部にまで入り、副葬品のツタンカーテンと言う印の一部を削る等の小細工もした。その動かしようのない証拠がある。それは、四重の入れ子の厨子、三重の入れ子の人型王棺、黄金の王の仮面である。これ等はカーターの小細工と墓の主が何者であるかを示している。カーターにはその意味が分からないので小細工はできなかった。カーターのみならず今日迄この意味を解明したものは誰一人いないのである。
. . 仮面を着けることの意味を考えてみる。ラムセス六世の墓造りの際にこの墓は発見され、ミイラまで詳細に調べられたが何者かは不明のまま閉じられた。この時、扉に王家の墓という印が描かれたものと思われる。調査のため人型王棺の納められた石棺を開けた際に、蓋が二つに割れてしまったが、石棺に蓋をした後に割れ目が分からないように丁寧に補修している。この時代には盗掘などはなかったのである。しかし、墓の内部の様子や黄金の王の仮面を着けた少年王の話は後世に伝わることになる。この時代以降、顔に金箔を貼ったり、金粉を塗ったり、仮面を着けたりしたミイラが見られるが、これ等は単なる真似である。仮面を着ける場合を大きく二つに分けることができる。一つは悪事を働くとき顔を見られないようにする、即ち、覆面としての使用である。もう一つは仮面舞踏会や芝居等で使用する場合で、仮面の表す人物になりきって行動して自ら楽しんだり、周りの人を楽しませたり、また、威厳を示したりする使用である。これ等二つの場合に共通することは、仮面を着けた人物は仮面の表す人物本人ではないということである。これは古代エジプトにおいても同じであろう。従って、少年ミイラが黄金の王の仮面を着けているということは、この少年は王ではないし、黄金のような輝かしい業績を持つものでもないことを表している。それにも関わらず輝かしい業績を持つ王として埋葬したことを示す。それを行うものは親であり、しかも、強大な権力を持つ王でなければならない。そのような人物が前節で述べた第四王朝の系図の中に見られる。親はクフ王であり、子は息子カワブである。クフ王は、自分の代で第四王朝が終わることを無念に思う以上に、次の王となること叶わずに若くしてこの世を去った息子カワブの無念を思い、せめて王として埋葬してやろうと考えたのである。それを証明するのが四重の厨子と三重の人型王棺である。
. . これ等はカワブの生きた時代を表している。入れ子の厨子は王朝を表し、一番外側の厨子は第一王朝、二番目の厨子は第二王朝、三番目の厨子は第三王朝、四番目の厨子は第四王朝を表している。その中の石棺に入れられた人型王棺は各代の王の時代を表している。一番外側の王棺は初代スネフル王の時代、二番目の王棺は二代目クフ王の時代、三番目の王棺は三代目王の時代を表している。この時、未だ二代目クフ王の時代であり、三代目王となること叶わずに亡くなったカワブを三代目王として王の仮面を着けて納めたのである。従って、一番目の王棺の顔はスネフル王の顔、二番目の王棺の顔はクフ王の顔、三番目の王棺の顔はカワブの顔、王の仮面もカワブの顔である。子は両親の何方にも似ているが、息子は母親によりよく似、娘は父親によりよく似るといわれる。スネフル王と王妃ヘテプヘレス一世とは母親が違い、スネフルは母親似であるから両者の顔はかなり違いがあると思われる。クフ王は母親ヘテプヘレス一世似であり、王妃メリティエテスは父親スネフル似である。従って、クフの息子カワブは母親メリティエテス似、即ち、祖父スネフル似となる。これが、第一の王棺と第三の王棺の顔はよく似ているが、第二の王棺の顔はかなり異なる理由である。尚、クフ王はその祖父フニ王似となる。
Fig5_1
Fig. 5.1
Fig5_2
Fig. 5.2
. .厨子、人型王棺、カノポス壷等の入れ子関係をFig. 5.1に示す。基本的な埋葬形式はFig. 5.2の上図に示すように、石棺と四個のカノポス壷を用意し、石棺にはミイラを入れ、カノポス壷にはその内臓を四つに分けて入れる。人型王棺は被葬者が王位に就いたことを表し、それにミイラを納めてその王の時代が完結した、即ち、この王の王位は二代目に継承されなかったことを表す。Fig. 5.2の下図に示すように、内臓を入れたカノポス壷は人型王棺に対応する位置に移るから、石棺に対応するものとしてカノポス棚が設けられる。スネフル王の王位は二代目クフ王に継承されたから、スネフルのミイラに替えて第二人型王棺が入れられ、カノポス壷はこの王棺に対応する位置に移り、カノポス棚は第一人型王棺に対応する位置に移るから、これをカノポス櫃に替え、石棺に対応するものとしてカノポス厨子が設けられた。カワブの死により、第二人型王棺にクフ王のミイラを入れ、カノポス壷に内臓を入れて第四王朝は完結することが確定した。しかし、クフ王は我が子カワブを三代目王として埋葬してやるため、自分のミイラの代りに第三人型王棺を入れてカワブが三代目王になったことにした。また、自分の内蔵の代りに、カワブの内蔵を入れるものとして第二人型王棺を縮小した小型人型棺を四つ用意したのである。そして、第三人型王棺に王の仮面を着けたカワブを納め、小型人型棺に内臓を納めて三代目王の時代が完結し、これをもって第四王朝が完結したことにしたのである。副葬品が豪華であるのに対して、墓の規模が第十八王朝前後の王墓に比べて小規模なのはカワブが王でないからとも考えられるが、第四王朝の時代にはこの程度の規模であったとも考えられる。
. . カワブの内臓を入れた小型人型棺を納めたカノポス壷にはトゥトアンクアテンと記されていたものを消してトゥトアンクアメンに書き替えてあるという。これは、被葬者の名前と勘違いしたカーターの仕業である。トゥトアンクアテン、日本語読みツタンカーテンとは「アテン神の生ける似姿」、即ち、「クフ王の息子」と意訳すべきものである。55号墓のカノポス壷にあるトゥトアンクアメン、日本語読みツタンカーメンは「アメン神の生ける似姿」、即ち、「クフ王の娘」と意訳すべきものである。上下エジプトの統一から500年以上を経たこの時代には、統一した二人の王は神とみなされているのであり、上エジプト王の神格化がアメン神、下エジプト王の神格化がアテン神である。上エジプト王の権威権力を50%受け継いだ息子と娘が共にアメン神の生ける似姿、即ち、トゥトアンクアメンであり、下エジプト王の権威権力を50%受け継いだ息子と娘が共にアテン神の生ける似姿、即ち、トゥトアンクアテンである。トゥトアンクアメンである息子とトゥトアンクアテンである娘が結婚して、アメン神とアテン神の合体神の化身として第一王朝初代の王が誕生した。その息子はトゥトアンクアメンであり、娘は下エジプト系王冠を受け継いでいるからトゥトアンクアテンである。その両者が結婚して合体神の化身として二代目王が誕生した。同様にして第一王朝が続くが、トゥトアンクアメンが途絶えて第一王朝は終わり、予備として上エジプト系王冠を受け継いだトゥトアンクアメンと予備として下エジプト系王座を受け継いだトゥトアンクアテンが結婚して、アメン神とアテン神の合体神の化身として第二王朝初代の王が誕生した。同様にして、トゥトアンクアテンが途絶えて第二王朝が終わる。第三王朝から第六王朝迄は上エジプト王の権威権力と下エジプト王の権威権力を25%づつしか受け継いでいないが、王はアメン神とアテン神の合体神の化身である。第四王朝三代目迄は娘は上エジプト系王冠を受け継ぐからトゥトアンクアメン、日本語読みツタンカーメンである。王座は途絶えたが、息子は下エジプト系王の子であるからトゥトアンクアテン、日本語読みツタンカーテンである。カーターの発見した墓の副葬品の玉座に男女の彫像と共に両方の記述があるのは、男性はトゥトアンクアテン、女性はトゥトアンクアメンということであり、カワブと妻ヘテプヘレス二世である。第四王朝でトゥトアンクアメンが途絶え、第六王朝でトゥトアンクアテンが途絶えて、合体神はアメン神とアテン神に分裂し、第十一王朝でアメン神がアテン神を倒し、アメン神全盛時代を迎える。
. . エジプト考古学は名前を偽装したり、何処かで発見した彫像を落としておいて第三者に発見させたりして、自説の正当性の証拠とすることで成り立っていて、科学的、あるいは論理的推論は殆どないと言わざるを得ない。55号墓の被葬者は女性であることは、ミイラの腕の組み方や骨盤の大きいこと、副葬品が女性用であること、ヒエログリフの記述が女性形であること等により明らかであるにもかかわらず、男性であるとしている。解剖医に鑑定を依頼して男性との鑑定結果を得たとしているが、その根拠については何も明かにされていない。考古学者の意向に沿った鑑定がされているのではないだろうか。男性器はミイラ発見時の処理の過程等で紛失したが後に発見されたとされる。ミイラにした後に失われたものか、初めから無いものか、解剖医が見て分からない筈がない。何処かのミイラから外したものを捨てておいて発見させたに違いない。ミイラはカーターの発見したミイラとDNA鑑定で兄弟であると鑑定されたとされるが、なぜ男性器の鑑定はしないのだろうか。実際は、兄妹であり、クフ王の息子カワブと娘ヘテプヘレス二世である。その証拠は埋葬形式にある。また、カワブと一緒に葬られた幼児の二遺体はカワブの二人の兄であることもDNA鑑定が可能ならば分かるであろう。
. . 55号墓はFig. 5.2の下図に示した埋葬形式をとっている。人型棺の顔はミイラの顔であるが、カノポス壷の蓋の顔は、カワブの内臓の入れ物である小型人型棺の顔がクフ王の顔であることに倣ってクフ王の顔にした。カノポス壷にはクフ王の娘を意味するトゥトアンクアメン、日本語読みツタンカーメンと記された。最初、ヘテプヘレス二世を王妃として埋葬しょうとしたが、カフラー王はそれを認めなかった。そこで、三代目ジェドエフラー王の王妃として埋葬しょうとしたが、それもカフラー王は認めず、クフ王が使用を認めなかったことを根拠に楕円形カルトゥーシュを削り取ってしまった。仕方がないので、クフ王の娘として埋葬しょうとしたがそれも認めず、被葬者が自分は何者であり、どのような顔であったか分からなくするために人型棺の顔を削り取って墓を閉じてしまった。カフラー王がそこまでする原因としては前節に述べた王位就任に関するごたごたが考えられる。自分が若すぎたことはあったとしても、ヘテプヘレス二世がジェドエフラーと結婚したことで自分の三代目王への就任はなくなった。四代目の就任も二度に渡り否定された。カフラーにとってヘテプヘレス二世はこの上なく憎い相手だったのである。この時のカノポス壷の形式が誤り伝えられた結果、この後、カノポス壷の蓋に被葬者である王の顔が彫られ、カノポス壷に王の名が記される慣習になったのである。
. . クフ王の息子と娘が隣り合わせにこの地に埋葬されていることはクフ王の墓の所在地を暗示している。第二章7節の後半に述べたように、ギザの第一ピラミッド、第二ピラミッドを最初に暴いたのはクフ王であり、彼はその内部構造をよく知っていた。又、第一ピラミッドと第二ピラミッドは親なるピラミッドであり、第三ピラミッドは子なるピラミッドであると考えた。そして、クルナ山を第一ピラミッドと見做してその麓の小山を第三ピラミッドと見做し、その麓に我が子カワブを埋葬した。従って、クフ王の墓はクルナ山にあり、しかも、第一ピラミッドの王の間に相当する高い位置にあると推測される。その入り口はカワブの墓を望める北向きにあるであろう。ヘテプヘレス二世の55号墓がカワブの隣に造られたのもそれを示している。これが語り伝えられたことにより、後に、この地が王家の谷と呼ばれることとなる程に王墓の集合する地となるのである。クフ王の墓が発見されれば古代エジプト史を塗り替える大発見となるであろう。
. . この時代にエジプトを出発した探検隊が、南大西洋を渡り、アマゾン川を遡り、アンデス山脈に登り、マチュピチュ近辺のチャチャポヤスに定住した。ここに、高度差数100mにも達する断崖に墳墓が造られているのは語り伝えられたクフ王の墓に倣ったものと思われる。一方、太陽の昇る東を目指して南太平洋を渡り南アメリカ西岸に達した一団は、三段の階段ピラミッドを台座とし、その上に木造の神殿を建造した。これはスネフルの一段の台座と二段の階段オベリスクを三段の階段台座の上にオベリスクを据えたものと見做し、オベリスクを木造の神殿に替えたと見ることができる。台座の内部には墓はなく、周囲に墓が造られたのは、この時代のエジプトではギザのピラミッド等は神が造ったものと考えられ、その周りに小さなピラミッドが墓として造られていたからである。シカンのロロ神殿の周りの墓の一つから、黄金の仮面を着けて西を向いて座った姿勢で上下逆さに埋葬されたミイラが発見された。彼は古代エジプト人であり、太陽の昇る東を目指してエジプトを発ち、太陽と影の関係がエジプトにおける場合と逆になる地へ来てしまった。裏の大地へ来てしまったと考えた彼は死に際して、太陽の沈む西を向いて座って上下逆さに埋葬されれば、表の大地に太陽の昇る東を向いて座って埋葬された、即ち、エジブトに戻ったことになると考えたのである。形状は異なるが黄金の仮面を着けていること、二人の幼児の副葬はクフの息子カワブの埋葬の様子を耳にしているからである。二人の女性は幼児の母親で現地人であると思われる。DNA鑑定が可能であればこれらは明らかになるであろう。ナスカに昆虫や鳥の巨大な地上絵を描いたのも古代エジプト人である。彼らは人が死ぬと生命力や霊魂を意味するカーやバーは肉体を離れ空中を飛翔できると考えていた。従って、エジプトに飛んで戻ることができるのだが、彼らの思想ではカーやバーがエジプトに戻っても肉体が戻れなければ意味がない。そこで、肉体を巨大な昆虫や鳥の絵に託して運んでもらおうと考えたのである。アボリジニの巨大な人間の図もこの様な意味をもつのであろう。考古学者はこの巨大な絵を描くためには拡大機が必要だと考えているが、古代エジプト人には簡単なことで拡大機などは必要ない。彼らの製図画法は升目を描いて各升目の中に決められたパターンを描いて全体図を完成するものである。従って、大きな升目を描いて大勢で各升目を分担して決められたパターンを描けばよい。大きな升目は、第一章8節、第二章5節に述べたように、太陽の作る影、南中高度、太陽の昇る方向、沈む方向等を利用して描くことができる。又、升目でなくても、原図形に付けた分割線と同じであれば放射線や円弧で区分してもよい。

6. 最後の階段オベリスク(通称階段ピラミッド)の設計

. .通称階段ピラミッドと呼ばれる六段の建造物は階段面と階段壁の交差部が全て丸くなる程にあまりにも崩壊が激しく、各部の測定により設計の根拠となる情報を引き出すことはかなり難しい。一つの手掛かりは、階段の高さが上に行く程低くなっているように見えることである。これが正しければ、スネフルの階段オベリスクと同様に、一点から引いた放射線と通称階段ピラミッドの全体の斜面角度を表す斜線の交点で各段の高さを決定していると予想される。その確認のため仁田三夫編著古代エジプト1から複写した写真により各段の高さを測定した結果をFig. 6.1に示す。写真に見られるように、階段面とその下の階段面に至る階段壁の交わる境界は崩れて丸くなってしまって定かでない。階段面と上の段に至る階段壁の境界も上から崩れた瓦礫に埋まって丸くなり定かでない。その結果、階段面も平らな部分が識別できない。写真はやや東よりの南から写したものであり、東側の第一段は殆ど失われ、南側の第一段も半分程失われている。正確な計測は不可能であるが、おおよその見当により図のように引き出し線を引いて各段の高さの計測を試みた。全体の高さは60mあるいは61mと言われるが、ここでは61mとした尺度により各段の測定値を決定した。大雑把な計測であるが、上に行く程次第に一段の高さが低くなっていることは十分な有意差をもって確認できる。更に、三段目と四段目が同じ高さに計測された。勿論、正確に同じか否かは定かではないが、他の段の高さの差の大きさを見れば、三段目と四段目の高さがほぼ同じであることは十分な確度で推測できる。これは、三段目迄と四段目から上では設計思想に違いがあることを示す。
Fig6_1
Fig. 6.1
. . 四段目から上は三段であるが、六段目は上に四角錐があったけれども崩壊により失われたと考えると、この部分はスネフルの二段の階段オベリスクであると推測される。そうであると、下の三段は階段台座ということになる。これから次のような推測ができる。第五王朝初代王のウセルカフはスネフルの階段オベリスクの台座を二段の階段台座にしようと考えた。第四王朝時代に第四キャタラクトが発見されていたのである。スネフルがフニの階段オベリスクを増築したのに倣い、ウセルカフは第三王朝初代のジョッセルの二段の階段台座を利用または拡大して、オベリスクをスネフルの二段の階段オベリスクに増築したのである。これは更に第六王朝初代王のテティにより増築されてしまったのでその原形を見ることはできない。
Fig6_2
Fig. 6.2
. . この推測の基に設計した通称階段ピラミッドの設計図をFig. 6.2に示す。スネフルの階段オベリスクの設計思想は正しく受け継がれていないためかなり異なった設計法となっている。Aを中心とする半径AWの円弧は使わず、Bを中心とする半径BWの円弧が中心線AVと交わる点Qをオベリスクの頂点とする。Qから引いた−45°の直線がAを通る水平線と交わる点をEとすると、斜線QEは階段の外側の縁を結んだ線分である。斜線QEと点Vから引いた−81°の直線VBとの交点 p を通る水平線は頂上部四角錐の底面を表す。この水平線と中心線との交点 q から引いた−45°の直線が線分VBと交わる点を r とすると、この点を通る水平線が階段オベリスクの二段目の階段面である。この水平線に点 p から−72°の直線を下ろすと、この線分と斜線Qpは頂上部の小型オベリスクを表す。点 r を通る水平線が斜線QEと交わる点から−72°の直線を下の階段面に下ろした部分が二段目の階段壁である。点 r を通る水平線と中心線との交点 s から引いた−45°の直線が線分VBと交わる点を t とすると、 この点を通る水平線が階段オベリスクの一段目の階段面である。この水平線が斜線QEと交わる点から−72°の直線を台座上面に下ろすと、ここから上がスネフルの二段の階段オベリスクに相当する部分である。
. . 階段台座の設計は下の段から行われる。点Aから引いた45°の直線が線分VBと交わる点を b とすると、この点を通る水平線が階段台座の一段目の階段面である。この水平線が斜線QEと交わる点から−72°の直線を引き、線分AEとの交点をFとすれば線分AFは一段目の台座の底面の中心より北側、南側及び東側を表す。点 b を通る水平線と中心線との交点 c から引いた45°の直線が線分VBと交わる点を d とすると、この点を通る水平線が階段台座の二段目の階段面である。この水平線が斜線QEと交わる点から−72°の直線を下の階段面に下ろした部分が二段目の階段壁である。点 d を通る水平線と中心線との交点 e から引いた45°の直線が線分VBと交わる点を f とすると、この点を通る水平線が階段台座の三段目の階段面である。この水平線が斜線QEと交わる点から−72°の直線を下の階段面に下ろした部分が三段目の階段壁である。
. . 中心線より左側は本来南側を表しているが、この図では西側の階段を重ねて示してある。中心線より右側は本来北側を表しているが、東側も南側も階段形状は同じであることを示している。右側を北側、左側を南側として見ると、点Aはエジプトの平坦地のほぼ南端であり、太陽がWにある時の南中高度はその平面の高さが高くなると低くなるので、階段台座の三段目上面の南端は南中高度がAにおける南中高度に等しい a 点、即ち、線分AWと階段台座の三段目上面との交点とする。頂点Qと点 a を結ぶ直線の延長線が底面を表す水平線と交わる点をCとすると、線分QCは各段の南の端を結んだ直線である。しかし、南側は既に設計済みであるから、この中心より左の部分を西側の設計とする。中心線AVはもっと西よりにあったが、ナイルにより西斜面が削られてなだらかになったのであると考えたのである。頂上部四角錐の底面の西端と各階段上面の西端から仰角72°の斜面を下の階段面に下ろせば設計完了である。
. . 各階段の設計高さは図に示したようにFig. 6. 1に示した概略の測定値とよく一致しているといえる。頂点Qの設計高さは67.97mであり、頂上部四角錐の底面まで崩れているとすると、その設計高さはqA=61.77mであるが、実測値は61m又は60mであるといわれる。底面の大きさの設計値は中心点Aより東側、北側、南側ともAF=58.66mであるから、底面の南北方向の一辺の長さは117.32mであるが、実測値は128mというものと109mと言うものがあり、三者共大きく異なる。AE=67.97mとAF=58.66mの平均は63.32mであるからその二倍を南北方向の一辺の長さとすると126.64mとなり、実測値128mとよく一致する。従って、この実測値は階段の凹凸を平均した四角錐の底辺を実測値としたものである。この四角錐斜面の平均角度は底面に対して47.03°であるが、これを点 q を頂点とした角度であるとしてqAの実測値を60mとすると南北方向の一辺の長さは111.8mとなり、109mという実測値にほぼ同じ値になる。従って、この実測値は間違った計測値である。底面の中心点Aより西側の寸法の設計値はAD=69.67mであるから東西方向の一辺の長さの設計値はAD+AF=128.3mとなるが、実測値は140mと言うものと121mと言うものがあり、三者共大きく異なる。西側も階段の凹凸を平均して、AC=81.79mとADとの平均値75.73mとし、AEとAFとの平均値63.32mを加えると東西方向の一辺の平均値は139.0mとなり、実測値140mとよく一致する。この四角錐西斜面の平均角度は底面に対して41.9°であるが、これを点 q を頂点とした角度であるとしてqAの実測値を60mとすると底面西側半分の長さは66.85mとなり、同様にして求めた南北方向の一辺の寸法111.8mの半分55.9mを加えると東西方向の一辺の長さは122.8mとなる。121mという実測値はこの様な間違った計測値である。南北方向128m東西方向140mと言う実測値は階段の凹凸を平均化した滑らかな斜面の四角錐の底面を表すものとして意味をもつが、本当の底面の実測値ではない。しかし、設計図から同様に計算した値がこれとほぼ一致することはこの設計図が通称階段ピラミッドの建造時の設計値とよく一致することを示し、底面の南北方向の一辺の長さは117.3m、東西方向の一辺の長さは128.3mである。
Fig6_3
Fig. 6.3
. . この通称階段ピラミッドは後に五段の階段台座の上に小さなオベリスクを据えたものと看做される。本著においても五段の階段オベリスクと呼ぶことにする。この階段オベリスクの底面を西側に長い長方形として、西側の斜面を少しなだらかにした理由は第三キャタラクト、第四キャタラクト、第五キャタラクトが存在する地形にあり、この時既に第五キャタラクトに達し、この地形や東側の紅海に下る地形を俯瞰することができたことを示す。これは第二キャタラクト迄しか知らない第三王朝のジョセルには不可能である。世界大百科辞典(平凡社)より、これ等の地形を表す図をFig. 6.3に示す。第五キャタラクトから見ればナイルは西側斜面を下っていて、東側にはもっと高い部分があり、そこからナイル支流が流れ込んでいる。更にその東側は急激に紅海に下っていることを眺めることも出来るであろう。この様に、西側斜面が緩やかな傾斜を持っていることをこの階段オベリスクは表している。
. . この階段オベリスクが第三王朝に造られたということはあり得ないことを示すもっと明確な証拠は神殿の敷地の形態にある。これまでの神殿の形態は、正面は北側で、長方形の敷地の奥の南の端に御神体であるオベリスクが据えられている。これはエジプトの大地の南の端がアスワン地方の山岳部であることを示している。一方、図説ピラミッド大百科(マーク・レーナー著、内田杉彦 訳)より複写した階段ピラミッド全体の構造復元図では、Fig. 6.4に示すように、この階段オベリスクは長方形の敷地の中央近辺にあり、図の左側が南であり、北側がエジプトの大地である。左側を右側より手前に描いていることは左側が正面であることを示す。これは復元図であり、実際の構造と全く同じか否かは分からないし、建造後に改造が為されていない保証もないが、大まかな構造は保たれていると思われる。その構造は、これ迄のオベリスク神殿の北側敷地とは階段オベリスクを中心に点対称的である。世界大地図帖(平凡社)のアスワン地方以南の部分図Fig. 6.5と比較しながらその構造について以下に述べる。
Fig6_4
Fig. 6.4
Fig6_5
Fig. 6.5
. . 第五キャタラクト近辺の西側はスーダンの高地砂漠であり、平坦地状であるが、更に西には段丘状の砂丘が望まれ、ナイルは平坦地状の砂漠の東側の端を南東の方向から流れている。その東には第五キャタラクトの少し上流で分岐するアトバラ川や第六キャタラクトで分岐する青ナイルの源流のあるエチオピア高原の北部が南東の方向から伸びている。この構造がずっと南の端迄続くことを階段オベリスクの南側の広場とその西側及び東側の構造は表している。しかし、第五キャタラクトからそれを確認することは出来ない。海から到達したある地の地勢からそのことを確信したのである。その地は、エチオピア高原の東側のアラビア半島南西端に面する位置にあるエチオピア高原を三角状に削ったような地である。その海岸線の中央付近に小さな国ジブチがある。小さいと言ってもナイルの三角洲くらいの大きさはある。そこには大河川の河口を思わせるような細長いタジュラ湾が内陸部に入り込んでいる。更に、三角状地形の頂点辺りにかなり大きなアワシュ川がエチオビア高原を北と南の二つに割るように流れ込んでいる。川の北側は青ナイルの源流のある地域であり、その山岳部は第五キャタラクト近辺まで連なっていることは船から見れば推測できる。この地に達した当時のエジプト人はアワシュ川はナイルに繋がっていて、この川を遡れば第五キャタラクトで見たスーダン砂漠に至ることが出来ると推測した。色で表された地形の険しさを第五キャタラクト近辺と比べれば明らかなように、実際にそれを確認することは出来なかったが、彼らはそう考えていたのである。Fig. 6.4の南東の角にある入り口はこれを表している。南の塀沿いに造られた構造体はエチオピア高原の分断された南の部分を表している。このジブチこそが第五王朝から盛んに交易が行われることとなったプントであるに違いない。

7. エジプトの分裂と再統一による巨大オベリスク対の建造

. . 第六王朝になると王位継承の方法に変化が見られる。初代王テティ、二代目王ペピ一世、三代目王ペピ二世の三代で第六王朝は終わるが、第五王朝迄は女性に付けられていた何々一世、二世という特別な名前が男性に付けられ、この後それが慣習となる。これは異変である。ペピ一世が生まれたとき、王と王妃との間に娘が生まれる可能性はなくなったことを意味する。王妃が死亡したため、ただ一つ残っていた下エジプト系王冠が途絶えたのである。これにより、第六王朝は初代王テティ一代で終わるだけでなく、王朝自体の存続が危ぶまれることとなった。それを避けるために、王位継承の方法を王自らが次期王を決める方法に変更した。そして、息子にペピ一世と名付けることによりこの者が次期王であると広く知らしめたのである。しかし、三代目ペピ二世と王妃との間には息子が生まれないか、死亡により居なかったために第六王朝は終わり、エジプトは分裂の時代を迎えることになる。
. . 血統書を失ったエジプトは、ノモスの首長として各地に散在する王族が皆王位継承権を主張して分裂の時代に入ったが、ペピ二世の血縁に近い王族は血縁を理由に権威権力の継承を主張し、第七王朝を立ち上げた。もはや、エジプトを統一した二人の王を祭る神殿を造ることは王朝の権威を示すために何の意味も持たない。そこで、エジプト統一より遥に古い時代の神が造ったと考えられているギザの建造物を御神体とした神殿を造り、自分は遥か昔からエジプトを治めている神に認められた、或は、その血縁の王であると権威を主張した。この時建造されたのは三つのピラミッドを従えているように見えるスフィンクスを御神体とした神殿である。第八王朝初代の王は第一ピラミッドを御神体とし、第九王朝初代の王は第二ピラミッドを御神体とし、第十王朝初代の王は第三ピラミッドを御神体とした神殿を造った。しかし、第十王朝と並立する形で上エジプトに第十一王朝が起こり、再びエジプトを上下に分断することになる。第二章ピラミッドの建造で述べたように、第三ピラミッドの建造中に赤い土の国が上エジプトに攻め入ってエジプトを二分したのに倣い、アンテフ1世は今こそ立ち上がるべき時と考えたのである。そして、三代目メンチュヘテプ二世により第十王朝は滅ぼされ、第二王朝から第十王朝まで続いた下エジプト系王の支配する王朝は終わり、上エジプト系王の支配する時代に変わった。ナイルの水を飲むものはエジプト人という定義では同じエジプトであるが、黒い土の国がエジプト、赤い土の国は異国という定義ではエジプトは赤い土の国に征服されたのである。
. . エジプトを統一した第十一王朝メンチュヘテプ二世は我こそはエジプト王であると顕示する建造物を造ろうと考えた。王の地位を自らの力で勝ち取ったのであるから、従来のような過去の王や神を祭る神殿は造る意味がない。そこで考えついたのが巨大な岩石柱で構成された一対のオベリスクである。これは中門の門前の両脇に一本づつ立てられているから御神体ではなく、門の飾りである。従来、この門飾りを持つ建造物は神殿と言われているが、その御神体は王自身であって、この建造物は王の宮殿である。ここはエジプト王の住む宮殿であると遠くの方からでも分かるように巨大な岩石柱を立てたのである。このオベリスクの現在残る最古のものは第十二王朝のものとされているが、実際は第十一王朝メンチュヘテプ二世が建造したものである。第十二王朝初代の王アメンエムハト一世はクーデターを起こして第十二王朝を立ち上げたと言われており、この宮殿を乗っ取ったのである。この王は暗殺されたとされていることからも分かるように、この様な巨大なオベリスクを持つ宮殿を建造する力量はなかった。このオベリスクが巨大な岩石柱の一対である理由を考えれば、第十一王朝メンチュヘテプ二世が建造したものであることは明らかである。
. . メンチュヘテプ二世は第一王朝のベンベン石に始まり、第六王朝の五段の階段の頂上にあるオベリスク迄はずんぐりした数字の”1”を表し、エジプトを統一した第一王朝を意味していると考えた。彼は、この数字の”1”を表すオベリスクを数字に近いもっとスマートな形にし、宮殿の中門の両脇に二本立てて数字の”11”を表したのである。ここにも黒い土の国の王と赤い土の国の王とのこれ等建造物に対する考え方の違いが見られる。黒い土の国の王は自然現象の意味を考えて、その機能を持つ縮小模型としてオベリスクや神殿を造った。一方、砂漠という殆ど何もない自然環境に生まれ育った歴史を持つ赤い土の国の王、即ち、上エジプト王は数という抽象的な概念を具体的な形で表す数字”1”を建造物にしようと考える。この30m以上にも及ぶ巨大な”1”を従来のように小さい石を積んで造るのは難しいと考え、一本の巨大な岩石柱として岩場から切り出したのである。この後、自らの力で王朝を立ち上げた王、或は、その上エジプト王は、第一王朝から第六王朝迄の初代王が”1”を表すオベリスクを建造したのに倣い、この”11”を中門の門前に据えた宮殿を建造する慣習となる。
Fig7_1
Fig. 7.1
. . 第十一王朝のメンチュヘテプ二世がテーベを首都としてエジプトを再統一して以来、エジプトの神々の主神とされたアメン神の姿とされる図をウィキペディアからFig. 7.1に示す。上エジプトでは神は姿を持たず、王が神の化身であり、これは王の姿である。頭に着けているのは赤冠であり、赤冠は下エジプトの王冠とする考古学の説は間違いである証拠である。 赤冠に二本付けられているのは羽根と言われているが、これは一対の巨大岩石柱のオベリスクを表し、”11”を意味している。縦の線はオベリスク断面四角形の対角線方向から見たときの角を表す線であり、横の線は断面四角形の二つの辺を水平な高さから見たときの線であり、この線によりオベリスクを分割した数によっても”11”を表している。五段の階段の頂上にずんぐりした数字の”1”を乗せた階段オベリスクは、四角錐を階段状に六つに分割して第六王朝の6を表していると考え、王冠飾りのオベリスクに十一分割の線を入れたのである。第一王朝がエジプトを統一した頃からの赤冠は後部にコブラが鎌首を持ち上げた後ろ姿が付けられているが、彼は、これは階段の頂上にあるオベリスクを飾りに変えたもので、そのために先端を丸くしたと考え、その飾りを彼が建造した一対のオベリスクの先端を丸くしたものに替えたのである。
Fig7_2
Fig. 7.2
. . オベリスクの建造法について考古学では、砂で断崖絶壁を造り上から落として立てたなどとしているようであるが、そんなことは不可能である。海岸の砂浜で簡単な実験をすれば分かることである。乾いた砂では45°程度の角度の斜面を作るのも難しいし、重量物を乗せれば角度は維持できない。波打ち際の湿った砂を用いれば90°に近い絶壁も作れるが、重量物を乗せれば崩れてしまうし、砂漠でそんなことは不可能である。ピラミッドの建造法についてもそうであったが、考古学者の考えることはおかしい。古代エジプト人は力学的にもっと真っ当な方法を用いていると考えなければならない。Fig. 7.2に彼らが行ったであろうと考えられる方法の原理図を示す。二つの櫓を建て、両頂上に丸太を渡して滑車とし、オベリスクの根元と先端を橇に乗せて先端部を櫓の間に入れたらロープでAの方向に引き、根元の橇をBの方向に引けばオベリスクを立てることが出来る。両荷重はオベリスクの重量のほぼ半分である。櫓の間にはオベリスクの根元の幅の溝を掘っておき、根元が溝に入ったら垂直を調整して固定すればよい。オベリスクの重量から見て人力でこれを行うのは不可能と考古学者は言うかもしれない。しかし、彼らの考える人力は力仕事などしたことのない学者の人力である。これ等の力仕事を行う古代エジプト人達はアンコ形ではなくても相撲の力士の集団に相当するのである。櫓及び滑車としての丸太の強度に疑問を持つかもしれないが、彼らが櫓を用いたという明確な証拠が残されている。仁田三夫編著古代エジプト2のルクソール神殿の写真から複写したFig. 7.3とFig. 7.4にその証拠を示す。

Fig7_3
Fig. 7.3
. . Fig7_4
Fig. 7.4
Fig7_5
Fig. 7.5
. . Fig. 7.3はオベリスクを斜め横方向から見たものであり、オベリスクの後ろには巨大なビルのような建物があってその中央にV字型の切り込みが見られる。Fig. 7.4はそれを正面から見たもので、この建物は完全に二つに分かれていて正しく櫓である。この櫓の頂上には大勢の人が乗れるので、両方の櫓の頂上でロープを引き上げれば滑車としての丸太は必要ない。櫓の頂上の角でロープが擦り切れるのを防ぐためにコロの働きをする丸太を角に据え付ければよい。櫓の間でオベリスクを立てたら、左のオベリスクは左の櫓の頂上の角に寄りかける。角には木製のレールをつけて橇を跨がせておく。各櫓の頂上から少なくとも一本のロープを張り、地上からも二本のロープを張ってバランスをとりながらオベリスクを櫓の谷間から出し、左の櫓の正面のオベリスクを立てる位置の後ろに立てかける。予めオベリスクの幅に岩盤を掘った溝にオベリスクをずらして嵌め込み地上のロープを引いて垂直に立てる。Fig. 7.5に示すように、溝の底面には橇の高さより少し高い段をつけておき、段の上にオベリスクが垂直に立ったら橇を抜き取り、Sで示したようなストッパーを嵌めて固定すれば完了である。
. . これだけ堅牢な櫓を造り、使用後にこれを壊すのは大変な作業であり、廃棄物の処理も大変である。この様な時、古代エジプト人は使用後に壊すよりは建造物の一部として有効利用することを考えてそれを造ることを示している。ピラミッドの建造においても、考古学者の言うように、瓦礫等により堅牢かつピラミッド以上に巨大な山を造り、使用後にそれを取り壊すという無駄な作業を古代エジプト人はしないという証拠でもある。

8. マヤのピラミッドとマヤ人の行方

. . マヤにある多くのピラミッドのうちそれらの原型となるもの、即ち、最も古いものはティカルのピラミッド群である。それらの中でも、青木晴夫著「マヤ文明の謎」(講談社)からFig. 8.1に示す双子のピラミッド又はコンプレックスと呼ばれる、長方形の敷地の東西に配した一対の五段ピラミッドが第一から第四の大神殿群より古いものである。これを建造したのは第六王朝時代にエジプトを発ち、太陽の沈む地を目指して地中海を西に向かい、大西洋、カリブ海と経てマヤに到達した探検隊である。この時代には、エジプトでは五段の階段台座の上に小さなオベリスクを据えた所謂六段の階段ピラミッドが建造されていた。従って、このマヤの五段ピラミッドは五段の階段台座であり、この上には木造の神殿のようなものが建造されていたと考えられる。
Fig8_1
Fig. 8.1
. . 探検隊の上層部の者は死期が近づくとエジプトに帰りたい、エジプトの地に葬られたいという郷愁が募り、彼らの出発時のエジプトのピラミッドを模したピラミッドに葬られることを望んだのである。従って、西のピラミッドはマヤを表し、東のピラミッドはエジプトを表している。それらの間の広場はカリブ海を表す。東のピラミッドの前にはステラ(石碑)が多数並べられているが、これらはカリブ海を大西洋から分ける小アンティル諸島を表す。今日、我々が太陽系の惑星の軌道を描くとき、各惑星の軌道半径の縮尺では描かない。描けないのである。注目している惑星の軌道に対して遠くの惑星の軌道はそれぞれ任意の縮尺率で描き、順番だけを維持した図を描く。同様に、彼ら古代マヤ人にとって活動の中心であるカリブ海が重要な構図であり、エジプトは小アンティル諸島の遥か彼方にあるという順番だけが必要だったのである。
. . カリブ海から北を眺めたときの特徴的な光景は、西からユカタン半島が伸び、東からはキューバ島が伸びてきて、両者の間の狭いユカタン海峡の向こうに広いメキシコ湾が望める光景である。カリブ海を表す広場の北側中央にある、中央に入り口を一つ付けた四角い囲いはこの光景を表す。Fig. 8.2の地図に示すように、ユカタン海峡はカリブ海の西の方にあるが、それより東にあるキューバ島から小アンティル諸島までは注目すべき光景を見出せなかったので、構図のバランス上、カリブ海の北の特徴的光景として広場の中央の北に配置したのである。メキシコ湾のユカタン半島北側には広大な浅瀬、カンペチェ堆が広がっていて、その中程の沖合い、ユカタン海峡西岸からほぼ北西の方向に環礁とその内側に一つ、外側に一つある小さな二つの島からなるアラクラン礁がある。北の囲いの中にある一つのステラはこのアラクラン礁を表している。

Fig8_2
Fig. 8.2
. . カリブ海の南は南アメリカ大陸で、その海岸線に小さいながら北のメキシコ湾と同様の光景が見られる。Fig. 8.2に示すように、小さな入り口を一つ持ち、内陸部に大きく広がる構造を持つベネズエラ湾である。小さいとは言っても湾の東西径は100km以上、南北の奥行きも100kmに近い大きさである。その背後にはアンデス山脈の北端に連なるオリエント山脈、メリダ山脈が海岸線近くに高々と横たわり、その海岸線にはベネズエラ湾の他に幾つもの小さな入江状の海が見られる。これらを幾つもの入り口を持つ囲いに屋根を付けた構造で表したのが広場中央の南に配置した幾つもの入り口を持つ建物である。ベネズエラ湾はカリブ海の東の方にあるのであるが、北のメキシコ湾に対応するカリブ海の南の特徴的な光景としてこの建物状の構造を広場中央の南に配置したのである。
. . 彼等より遥か後の時代に、この構造体をも取り込んだ大神殿群をティカルに建造したマヤ人は、やがて、上記に述べたこの構造体全体の意味を知ることとなる。更に、この構造体の建造者は意図しなかったことであるが、この構造体にはもっと重大な意味が込められていると推測した。そして、マヤの地を捨てることになる。彼らの行方も又この双子のピラミッドの構造体が示している。
. . 彼等と略同じ時期にエジプトを発ち、紅海を南下し、太陽の昇る東の地を目指した探検隊があった。彼等の探検は単に東の果てを目指すだけでなく、できるだけ海岸線に沿うように航海し、大河川の河口を探しながら東進する新天地発見の探検でもあった。従って、各地で人員を補充したり、又、途中の地に残る者もいたり、何世代にも渡る海洋民族としての大探検となった。彼等はメソポタミア、インダス、黄河と四大文明地を辿り、遂に太平洋に行く手を阻まれ、東シナ海周辺に長く滞在することとなる。ここで彼等は小規模ながら大地の海中への沈没を経験したに違いない。そして、東シナ海、黄海、黄河文明地の或る渤海等は大地が海中に沈没して出来たのであり、東シナ海と太平洋を仕切る薩南諸島、琉球諸島等の島々は山脈の高い部分が海面上に残ったのであると考えた。実際、沖縄近辺の海中には城壁のような人工構造が発見されており、又、海中にある竜宮城のお伽話もある。彼等はこの東シナ海周辺の大地はやがて全て沈没するであろうと考え、更に東の新天地を目指して太平洋に乗り出す大移動を決行するのである。
Fig8_3
Fig. 8.3
. . 太平洋横断に成功し、中央アメリカ西岸に到達した彼らは、そこには文明らしきものを見出せなかったので更に内陸部に進んで行く。そして、ティカルに双子のピラミッドを発見し、これを建造した文明はエジプトに匹敵するものであり、この地は新天地であると確信してこの地に定着し、更にマヤ文明を発展させていく。やがて彼等もこの地にピラミッドを建造するが、青木晴夫著「マヤ文明の謎」(講談社)からFig. 8.3に示すティカルの多くの建造物はR, Q等で示す双子のピラミッドのように全体的な設計思想の基で或る時代に一気に建造された物ではなく、ティカル以外のピラミッドと同様に時代と共に次々と建造された物と考えられる。その理由は全体的な設計思想を汲み取ることが困難であるからである。しかし、第一、第二、第三、第四神殿には一連の設計思想を読み取ることが出来る。
. . 今日では、この図の様に東から番号を振るのが普通のようであるが、それでは何故第四神殿が一番大きいのかという疑問が残る。古代マヤ人は逆に番号を振っていたと考えるのが妥当である。第四神殿は第一文明地エジプト、第三神殿は第二文明地メソポタミア、第二神殿は第三文明地インダス、そして第一神殿は第五文明地マヤである。ここで、注目すべきは第四文明地を表す神殿がないことである。マヤには「世界は四回滅んで、或は海中に没して、現在は五回目の新世界である」と言うような言葉がある。何回目と何番目という表現は日本語でも英語等でも略同様の表現を使うから古代マヤでも同様であろうと思われる。従って、この言葉は「第四の文明地は海に沈没した。マヤは第五の文明地である」と解釈できる。彼等が東シナ海を捨ててきた民族であると言う考えとも符合するのである。又、彼等はエジプトの階段オベリスク(通称階段ピラミッド)が五段の階段台座で終わったことを知らないから、更に多段の階段台座を建造し、頂上に木造の神殿を建造したのである。
. . 時代と共に彼等はこの地に様々な建造物を建造し、又、その他の地域にも勢力を拡大し、巨大なピラミッドを建造していくが、やがてティカルの近くを流れる川を下りカリブ海へ進出していく。そして、カリブ海周辺の探検により得た各地の地理的情報を総合した結果、カリブ海は大地が沈没して出来たものであることを知る。この時、彼らの祖先がティカルに辿り着いたとき既にあった双子のピラミッドはこのことを表していると彼等は考えるに至った。更に、彼等が新世界だと考えていたこの地は彼等が捨ててきた東シナ海周辺よりずっと以前に沈没したのではないか、即ち、マヤは黄河より古い世界ではないかとの疑念を抱くに至った。更なる調査の結果、この地は正に完全沈没寸前であると確信し、この地を捨てる決断をしたのである。
Fig8_4
Fig. 8.4
. . 双子のピラミッドが表すカリブ海とその周辺の特徴的光景を東シナ海とその周辺の光景に関する彼らの祖先の残した記録又は伝聞と突き合わせた結果、カリブ海とその周辺は東シナ海及びその周辺と極めてよく似ていることに彼等は気がついた。今日、我々は地図というものを持っているからそれを比べれば全く似ていないというかもしれない。しかし、彼等は今日のような地図は持っていない。彼等は各地で見てきた特徴的な光景だけを頭の中で合成し、又は図に描いて全体を見ていたのであり、彼らの地図は双子のピラミッドのようなものなのである。従って、彼らの考えを理解するためには、Fig. 8.2のカリブ海の地図とFig. 8.4に示す東シナ海周辺の地図とを眺めて細かいことは無視し、大きな特徴だけを比較しなければならない。簡単のため、以下の記述では黄海を含めて東シナ海と呼ぶこととする。
. . 先ず、東シナ海は南北方向に長いがカリブ海は東西方向に長く、両者とも略長方形と見ることが出来る。従って、東シナ海はカリブ海を時計方向に90°回転したものである。これが両者を比較する上で重要な基本的な考え方である。カリブ海の北西の角にはユカタン半島があり、それに対応する東シナ海の北東の角には朝鮮半島がある。ユカタン半島の東にはユカタン海峡を挟んでキューバが東西方向に細長く横たわっている。これに対応して、朝鮮半島の南には対馬海峡を挟んで九州が南北方向に横たわっている。ユカタン海峡の北にはメキシコ湾が広がり、それに対応する対馬海峡の東には日本海が広がっている。ユカタン海峡の北西の方向には環礁と二つの小さな島からなるアラクラン礁があり、それに対応して、対馬海峡の北東の方向には環礁はないが二つの小さな島からなる竹島がある。カリブ海の東の端は小アンティル諸島により大西洋と仕切られており、それに対応して、東シナ海の南の端は薩南諸島、琉球諸島等の島々により太平洋と仕切られている。カリブ海の南は南アメリカ大陸であり、それに対応して、東シナ海の西はアジア大陸である。カリブ海の西にはユカタン半島の付け根からホンジュラス湾があり、続いてニカラグア東岸からモスキトス湾に至る巨大な湾状構造がある。それに対応して、東シナ海の北には朝鮮半島の付け根から遼東半島迄の湾状の海があり、その西には湾状の渤海がある。この様に比較してみれば東シナ海周辺とカリブ海周辺とは正に瓜二つと言うことが出来る。
. . 彼等は、どうしてこの様な瓜二つの大地が広大な太平洋を挟んで存在し、しかも、両者共沈没しつつあるのかとの疑問を持った。更に大きな疑問は、彼らの祖先は太陽の昇る東を目指してエジプトを後にしてきたのであるからエジプトは西にある筈であるのに、双子のピラミッドはエジプトが東にあることを示しているのは何故かと言うことであった。そして、彼等はその答えを見つけた。この世界は紙の表と裏のようなもので、裏の世界には表のそれぞれの大地に対応する瓜二つの大地が存在し、表の世界の東の果ては裏の世界の西の果てに繋がり、表の世界の西の果ては裏の世界の東の果てに繋がっているのであると考えた。そして、双子のピラミッドがステラのすぐ東にエジプトを表すピラミッドを据えているのは、小アンティル諸島とエジプトの間には何もないことを示しているのであり、カリブ海周辺以外の裏の大地は全て沈没してしまったのであると結論した。更に、カリブ海西部の中央アメリカは太平洋に沈没寸前であり、カリブ海と太平洋は今にも繋がってしまいそうな状況を見て、この地はやがて完全に沈没してしまうであろうと考え、この地を捨てる決断をしたのである。そして、彼らの行くべき新世界が東には存在しない以上、彼らの祖先が捨ててきた表の大地の東の端のある東シナ海に戻るしかなかった。
. . 彼等は東シナ海も大地が沈没して出来たものであり、黄河文明地はカリブ海西部の中央アメリカと同様にやがて沈没するであろうと考えたのでそこへは戻らなかった。東シナ海周辺で最も安全で文明のある所は、カリブ海西部の中央アメリカが沈没寸前でも沈没の兆しを見せていないユカタン半島に対応する朝鮮半島であると考え、大移動を敢行したのである。朝鮮半島とマヤの風俗習慣が極めて酷似している理由である。朝鮮文字とマヤ文字は、表音文字を考案し、それらを二次元平面に並べて漢字様の文字を構成する点で極めてよく似ている。朝鮮文字が制定されたのは14世紀、マヤ人が消えたのは9世紀と言われる。その時既にマヤ文字は存在したのであり、マヤ文字が朝鮮文字の基になっていると考えるのが妥当である。当時の朝鮮においては漢字が使用されていたが、一般に使用できる平易な文字が必要であるとの考えから新しい文字が考案されたとされる。日本でも同様であるが、漢字を崩してひらがなにしたり、漢字の偏や傍をカタカナにしたりと基の文字を変化させて平易な文字を構成している。朝鮮文字のように漢字とは全く異なる構成の新しい文字が使用されることは戦争により文明の征服があったときは起こり得る。しかし、この時代の朝鮮半島にその記録はない。戦争ではないが、マヤ系の民族の著しい増加の結果ではないだろうか。
. . 更に、マヤ人が朝鮮半島へ移住したことを示す証拠として朝鮮半島にあると言う日本の古地図を挙げることが出来る。そこに描かれた日本列島は中部地方より北の部分を南に折り返した形をしている。佐渡島は日本海ではなく太平洋側にあり、北海道の渡島半島は日本海側ではなく太平洋側にある。ここで、カリブ海周辺の地図Fig. 8.2を見てもらいたい。この古地図を描いた者は、日本列島は大アンティル諸島と同じような形をしていると考えている。本州はキューバ、佐渡島はジャマイカ、北海道はハイチ及びドミニカである。この様な地図はカリブ海周辺をよく知っているか、それを示す古文書や伝聞がなければ描けない。古代史では朝鮮半島からマヤへの移動があったとしているようであるが、それでは上記のような事実の説明が出来ない。マヤから朝鮮半島への移動があったのでなければならない。

9. 日本に伝わるマヤ人大移動の証拠

. . 日本にもマヤ人大移動に関する幾つかの伝聞が伝わっている。その一つは中国人の著した魏志倭人伝である。しかし、その解釈は論争があり、未解決である。その大きな原因は、漢文は返り点を打つことにより日本語に読み下すことが出きるため、その結果の解釈に日本語の文法を適用してしまうことにある。日本語では、「Aをし、Bをし、そしてCをする」と書けば「そして」が有っても無くても逐次に処理することを意味し、並列的処理には「Aをし、同時にBをし、同時にCをする」と、並列的を示す語を最初の処理以外の全てに付けなければならない。選択的並列の場合は「又は」等が必要である。しかし、漢文は逆なのである。漢文の基になるのは漢詩で、短い文を行を改めて書くのが基本であり、句読点を必要としない。「Aをする。Bをする。Cをする。」と行を改めて並列的に書けば並列的処理である。逐次処理の場合は、文の順序を入れ替えたら意味が通らなくなるような特別な場合を除き、「Aをする。次にBをする。次にCをする。」と逐次を表す語を最初の行以外の各行頭に置かなければならない。これらを同一行に逐次に書いてもこの決まりは同じである。邪馬台国論争はこの決まりを全く間違えている。以下に、魏志倭人伝を正しく解釈するためのその他の簡単な文法を示す。
. . 漢文の文法は英語の文法と略同じであると考えられる。文の基本構造は主語+動詞+目的語又は補語である。但し、連続して書かれた文の主語が同じ場合は最初の主語以外は省略される。主語は上記の逐次を表す語と同じ意味を持ち、主語のある文はその前の文とは独立で逐次の関係にあることを示す。一方、主語のない文はその前の主語のある文の主語に並列の文であることを示す。又、英語のような関係詞やthat節に相当する語は使わずに、各文が句や節として意味の上で複文を構成する。英語のbe動詞に相当する動詞はなく、単に主語と補語をABと逐次に書いて「AはBである」を表す。英語のA is BはA of BとしてBのAと言う句を構成するが、漢文ではABのままでこの意味を表す。この場合「B之A」と表すことも出来、AがBの部分であるような時は「之」は省略することも出来る。これらの規則は全ての漢文に共通することを主張するものではないが、魏志倭人伝を正しく解釈する上で十分なものであると考える。
. . 邪馬台国論争はその所在地を想定した上で都合のよいように倭人伝を解釈しているとしか思えない。邪馬台国は日本国内の何処にも存在しない。正しく解釈すればこの論争は意味がないことが分かるが、ここで結論を述べておく。邪馬台国は日本の国土全体を表す名前である。そこに住む民族が倭人である。倭人はグループに分かれてそれぞれ小国家を構成している。それら小国家を統括する首長国が女王国であり、女王国と小国家を含む全体が倭国である。中国で魏と国を付けずに呼ぶように倭とも呼ぶ。首長国の女王は当然に小国家を含む全体の女王、即ち、邪馬台国女王である。従って、邪馬台国と倭国は同じであるが、女王に従わない狗奴国は倭国の外とも考えられる。以下に倭人伝の詳細な解釈によりそれを示すが、官職や風俗習慣については必要がないので省略する。
. . 倭人在帯方東南大海之中____==>_____倭人は帯方の東南の大海の中にある。倭人在とは邪馬台国有に同じである。邪馬台国論争では帯方は韓国の帯方郡としているがこれは間違いである。帯方という語はこの他に三ヶ所で使われているが、帯方郡としているのは一ヶ所のみ、他の二ヶ所は官職名で帯方太守である。帯方郡の箇所は次の通りであり、帯方と帯方郡は異なることを明確に示している。
. . 王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国____==>_____韓国は一つだから、帯方郡諸韓国の諸は諸君の諸の意味ではない。新漢語林によると諸の字義に「これ」とある。従って、この部分は「帯方郡これは韓国」の意である。もし、その他の帯方が同じ意味なら諸韓国は最初の帯方に付ける筈である。本国の黄河河口辺りに帯方郡があり、韓国の帯方郡は本国帯方郡の出先機関で、本国帯方郡は帯方または単に郡と呼ぶことを示している。国とか郡は敬称的に使用されるもので、自分の国や郡には付けず、使う場合は名前を付けずに単に国とか郡と記述するのが普通なのである。魏の都は洛陽であり、黄河河口から600km程も西方の黄河上流にある。京は大きい意があるから京都はもっと広い意味の都、即ち、黄河河口の郡を含む意であろう。及郡の及は接続詞ではなく及ぶという動詞であり、新漢語林によると至るの字義がある。及郡と使倭国の二文の主語は王遣である。故に、王の遣いは韓国の帯方郡(の船)を本国に呼び、帯方に行き、倭国に使いするの意味である。今日、タクシーを呼ぶのと同じであり、魏人は大陸人であるから海洋の航海術は優れず、優れた航海術を持つ韓国の船を使ったのである。
. . 従郡至倭____==>_____本国帯方郡より倭に行く。洛陽から本国帯方郡迄は魏の国内、魏を離れる本国帯方郡が出発地である。この文が倭に到着する迄の意味上の主語である。
. . 循海岸水行歴韓国____==>_____海岸に沿って水行し、韓国を歴る。新漢語林によると循の第一字義に「従う」とある。海岸が陸地から見て凹状に湾曲しているから自然とそれに沿って行くことが循海岸の意である。これに対して後に出てくる周旋は、凸状の海岸を陸地を中心に旋回するように海岸に沿って行くことを意味する。歴韓国は韓国が通過点であると述べているのであり、当然に、韓国の帯方郡は出発地ではない。
. . 乍南乍東____==>_____新漢語林によると乍は「たちまちに、急に」の意とある。たちまちに(急に)南に向き、たちまちに(急に)東に向く。循海岸・・・と並列状況の記述で、できる限り直角に方向変更することにより進行距離と方向を直角三角形で確認しながら水行することを意味する。東への総距離と南への総距離の直角三角形で本国帯方郡と狗耶(邪)韓国の北岸との直線距離を求めることが出来る。
. . 到其北岸狗邪韓国七千餘里____==>_____狗邪韓国の北岸に到着する。七千餘里である。「到北岸、其北岸ハ狗邪韓国」の重複する北岸を省いたものである。至と到は意味が異なる。至は道案内標識等の何処何処へ行くの意があり、実際に行くとは限らない。到は到着するの意である。邪馬台国論争では狗耶韓国は釜山辺りとしているが、そこへは周旋しないと行けないし、北岸は存在しない。北岸が存在するためには其の南側が狗耶韓国でなければならない。又、釜山九州間は千餘里しかなく、倭人伝が釜山・対馬・壱岐・九州の各区間は千餘里としていることに合わない。狗耶(邪)韓国 ==> 新漢語林によれば狗は狛犬又は子犬、邪は耶と同じで「・・・か」の意とあり、「狛犬は韓国か」の意。狛犬は門前の脇に据えられており、韓国に対してこの位置にあるのは済州島である。又、子犬を連れた散歩で子犬が人を引っぱるような姿でもある。倭人伝の国名は各構成漢字の意味に基づくこの様な意味を持っているようである。
Fig9_1
Fig. 9.1
. . 帯方を出発して済州島北岸に到着する迄の航路の一例をFig. 9.1に示す。東に進行した総距離と南に進行した総距離で直角三角形を描けば帯方と済州島北岸の直線距離が求まる。これが七千餘理である。地図からこの距離を求めると約840kmである。千里以上の距離には百里の位の違いが表示されていないから七千餘里とは七千里と七千五百里の間と考えられる。従って、一里は112mから120mの間となる。しかし、地図は球面を平面に描いたものであり、緯度の高い所では子午線方向と緯度線方向の距離はかなり信頼できるとしても斜め方向の長距離の信頼性には疑問がある。又、実測値の七千餘里の信頼性も問題である。そこで以下に理論的に一里の長さを求める。
. . 第一章8節において、古代エジプト人は太陽が北回帰線にある時の南中高度が異なる二地点の距離を測定して太陽迄の距離を推定したが、この距離は地球の半径に略等しいことを述べた。この南中高度が異なる二地点の距離は地球の中心角に対する子午線の長さに略同じで約111kmである。しかし、広大な平坦地のあるエジプト以外の場所でこれを計測するのは困難である。日南中高度が1′異なる2地点の距離は1850mとなるが、これは今日でも海洋航海で使われている1海里である。古代人はこれを基本単位として使用していたのである。下位桁の値は日南中高度の測定地点、角度測定精度、途中計算の丸めで多少異なるが、この四分の一(15″)の463m、五分の一(12″)の370mが魏で使われていたとされる長里である。二十分の一(3″)の92.5mが倭人伝の短里であると思われる。朝鮮半島も日本も漢字文化圏であり、十進法である筈なのに韓国の海洋航海術が二十進法を使っていたのは何故か。これはマヤ人が朝鮮半島へ大移動した証拠である。魏も韓国も大陸人であるのに、魏が韓国の船を利用するほど韓国の海洋航海術が優れていたのもマヤ人が朝鮮半島へ大移動した証拠である。今日、日本では千分の一の1.82mを一間、六十分の一(1″)の30.8mの更に百分の一を一尺として使用している。一町は六十間で109.2m、一里は三十六町で3.93kmである。欧米では一尺に相当するものを1フィート、短里に相当する距離の百分の一を1ヤードとしている。これらの単位は子午線の長さに基づいているからメートル系単位である。結論として、一短里は92.5mとなったが、倭人伝の距離は餘里がどの位か不明であり、あまり正確な換算は意味がないので以下では換算の簡単化のため一短里を100mとする。
. . 始度一海千餘里至対海国・・・方可四百餘里・・・有千餘戸____==>_____対海国は対の海を持つ国、即ち、対馬海峡西水道と東水道の境にある対馬である。始めに一海を千餘里渡ると対海国へ行く。方可四百餘里 ==> 面積は四百餘里四方であろう。40km四方となるが、1600km2は実際の面積の約2倍である。80km×20kmの長方形としているようであり、実際は中央で二つに分かれていて三角形に近いのであるが、長方形に含まれる海の部分も国の面積と考えているのである。方向の記述はないが次の文頭で又南、即ち、再び南とあるから渡る方向は南である。
. . 対馬は済州島の略東方であるが、これを南としているのであり、倭人伝の著者は日本に関する地理的知識は殆どなく、マヤ人のもたらした伝聞を基に書いている。前節に述べたように、日本列島はキューバ島を時計方向に90°回転したものであるとマヤ人は考えていた。倭人伝の著者は済州島を中心にして日本列島を時計方向に90°回転したものとして書いているのである。女王国が會稽東冶の東にあるという記述もこれによるのであり、瀬戸内海から紀伊半島迄がこの位置になる。従って、今日の地図で倭人伝を読むためには、狗耶韓国から先の倭国内の方位は90°反時計方向に回転し、南は東、東は北、北は西と読み替えなければならない。以下の解釈では読み替えた方位と(伝・南)のように倭人伝の方位を示す。倭人伝がマヤ人のもたらした伝聞に基づいていることは、魏の時代に書かれたという説に疑問を生ずる。或いは、マヤ人が消えたのがもっと以前の時代であった可能性もある。
. . 対馬は済州島の略東方の約250km、即ち、二千五百里程にあり、倭人伝の千餘里という記述と合わない。しかし、壱岐も済州島の東(伝・南)300km程にあり、この中間に対馬があると考えているのである。その理由は後で述べるが、これも著者が日本の地理を殆ど知らないことを示すものである。
. . 又南度一海千餘里名曰瀚海至一大国・・・方可三百里・・・有三千許家____==>_____再び東(伝・南)に瀚海という一海を千餘里渡ると一大国に行く。一大国とは周りの属島を一纏めにした国の意。三百里四方は約900km2となるが、壱岐の実面積は135km2程である。有人島5、無人島22の属島を含む四角形の面積と考えられるが、殆どは海で実面積は対馬の1/6であるのに家は対馬の三倍ある。家と戸の違いか、殆どが平坦地ということか。或いは、海にも筏や船の上に家があるということかもしれない。
. . 又度一海千餘里至末盧国有四千餘戸____==>_____又渡は前文の南渡を受けて、再び東(伝・南)に一海を千餘里渡ると末盧国に行く。四千餘戸ある。新漢語林によれば末は「端」、盧は「飯びつ。すびつ(炉)」とある。Fig. 9.2に示す博多湾の形状をすびつ(炉)に例え、湾内は火を入れる所、その北側の細い半島が鍋を乗せる所であり、その端にある古賀市辺りが末盧国である。壱岐より略65km程であり、済州島からの直線距離は略360kmである。対馬、壱岐がこの三等分点にあると看做して、狗耶韓国・対海国・一大国・末盧国の各区間を千餘里としている。
Fig9_2
Fig. 9.2
. . 東南陸行五百里到伊都国有千餘戸____==>_____北東(伝・東南)に五百里陸行すると伊都国に到着する。千餘戸ある。古賀市辺りから直線距離50km程北東方向にあるのは関門海峡入り口の小倉である。到着であるからここが「郡より倭に行く」の終着点である。ここ迄の距離が後に記述される万二千餘里であり、その記述迄の以降の記述は伊都国が終着点であることの説明である。新漢語林によれば伊は「これ」とある。伊都国とは「これは都の国」、即ち、都の飛び地の意味である。陸行五百里は実際に陸行するということではない。実際はFig. 9.2に示すように、たちまちに北(伝・東)し、たちまちに東(伝・南)し、後半はたちまちに南(伝・西)し、たちまちに東(伝・南)することにより船で陸地を回って行くのであるが、その結果得られた直線距離が陸上の距離であるから陸行五百里としている。楽で早く着く船を降りて、山あり谷ありで難行し、日数もかかる陸行を選ぶ筈がない。実距離は航路の総距離であり、図の直角三角形の二辺の和と南北9kmの往復であるから約84.6kmである。従って、済州島より小倉迄の航行距離は約450km、即ち、略五千里であり、郡より小倉迄一万二千餘里となる。図のような直角に方向変更する航路を取ることによりマヤ人は陸地のおおよその形状を把握していたのである。
. . 丗有王皆統屬女王国郡使往来常所駐____==>_____代々王があるが皆女王国に統属する。郡の使いの往来で常にとどまる所である。これは、郡の使いはここより先へは行かないことを示す。魏の玄関口が洛陽より600km程も離れた黄河河口であるのと同様に、倭国の都は関門海峡を通って500km(後に周旋五千餘里と記述)程も奥にあり、伊都国が倭国の玄関口である。
. . 東南至奴国百里・・・有二萬餘戸____==>_____北東(伝・東南)に百里で奴国に行く。二萬餘戸がある。伊都国に到着の後であるから、小倉から北東に10kmの地点は関門海峡の瀬戸内海への出口であり、水行の経路である。ここから奴国であるから、瀬戸内海、凹凸の激しい山陽沿岸、四国との間に密集する多数の島々からなる広い地域が奴国である。末盧国以降は何百里四方という面積記述がないから戸数記述は面積を表すと考えられ、奴国が倭国第三の戸数を持つ理由である。新漢語林によれば奴とは「召使い」とある。奴国とは女王国の召使いの国、即ち、女王国と伊都国の間の取り次ぎをする国である。
. . 東行至不彌国百里・・・有千餘家____==>_____北(伝・東)に行くと百里で不彌国に行く。千餘家がある。文頭に又が無いから前文と並列であり、起点は伊都国である。小倉から北(伝・東)に10kmは関門海峡を彦島へ渡り、更に本州へ渡った下関である。新漢語林によれば彌は「わたる」とある。従って、不彌国とは渡らない国、即ち、この国より先は海を渡らない意であり、陸行の経路である。伊都国が終着点であること及び距離が必ずしも明確でないことにより、この後の記述は所用日数による距離の記述に変わる。
Fig9_3
Fig. 9.3
. . 南至投馬国水行二十日・・・可五萬餘戸____==>_____東(伝・南)に水行20日で投馬国に行く。五萬餘戸であろう。投馬国は北海道である。この記述は邪馬台国の大きさを示す意味を持ち、文頭に又が無いから前文と並列であり、起点は伊都国である。邪馬臺国の邪(耶)は「・・・か」、臺(台)は「土地」の意と新漢語林にある。邪馬臺国とは「馬かと思われる土地の国」である。Fig. 9.3に日本地図を示すが、九州は馬の後ろ足、山陰山陽地方及び四国、紀伊半島は胴体、中部地方から関東は胸元、東北地方は首、北海道は頭である。投馬国は「つまこく」と読んでいるが、新漢語林によれば投に「つ」の音は無い。頭馬国なら「づまこく」、濁りを取れば「つまこく」と読める。臺を壹と書く場合は「馬の字一字の国」である。馬の字が出来る過程を示すとき、馬の字の上部を右に大きくずらして菱形状に変形し、馬の胴体及び首の形状にした図がよく示される。紀伊半島は前足であり、四国、九州、壱岐、対馬は四つの点で表された四肢の蹄である。前記の対海国・一大国・末盧国の里程の記述はこれに基づいて、これらの国は直線状に略等間隔にあると倭人伝の著者は考えている。
. . 南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月・・・可七萬餘戸____==>_____同じく東(伝・南)に、水行なら十日、陸行なら一月で邪馬台国女王の都とする所へ行く。七萬餘戸であろう。文頭に又が無いから前文と並列であり、起点は伊都国である。水行と陸行も同様に並列である。都は本州の中程にあることを示すもので、紀伊半島にあり、奈良と考えられる。邪馬台国は前記のように日本の国土の形を示すが、倭国も又同じである。新漢語林によれば倭の字義は「くねった」とある。九州はその南端から北に向き、山陰山陽四国から近畿にかけて東に向き、中部から関東は北東に向き、東北は北に向き、北海道は渡島半島から略東に向いているのであり、正にくねった国である。韓国という名も又国土の形から付けられている。新漢語林によれば韓の字義は井桁とある。朝鮮半島の南部はFig. 9.1に見られるように略四角形をしているのでこれを井桁に譬えたのである。帯方という郡名も帯状の長方形を意味する。魏の都洛陽と黄河河口の間の黄河に沿った帯状の郡を帯方と呼んだのである。そして、洛陽と帯方を合わせた地域が京都である。
. . 自女王国以北其戸數道里可得略載____==>_____女王国より西(伝・北)は其の戸数道理を略載し得る。可得は二重に可能を肯定している。この文は女王国が邪馬台国、即ち、倭国の一国家であることを示している。
. . 其餘旁国遠絶不可得詳____==>_____その他の旁国は遠く隔たっているため詳らかにし得るとは言えない。不可得は前文の二重に可能の一部を不可とした部分否定である。全否定なら不得詳である。新漢語林によれば旁の字義は「わき、そば」とある。旁国とは現在記述している文のそばに記述してある国の意である。
. . 次有・・・次有奴国此女王境界所盡____==>_____旁国とはこの文に列挙した国を指す。奴国これ女王の境界の尽きる所とは女王の権力の及ぶ範囲の尽きる所である。
. . 其南有狗奴国男子爲王・・・不屬女王____==>_____その東(伝・南)に狗奴国があり、男子を王とする。・・・女王に属さない。前文の女王の境界が尽きる理由である。
. . 自郡至女王国萬二千餘里____==>_____本国帯方郡より女王国迄萬二千餘里である。この文の女王国は都のある首長国だけではなく、その玄関口である伊都国を含む。この文の後に伊都国が女王国の飛び地であることが記述される。
Fig9_4
Fig. 9.4
. . 計其道里當在會稽東冶之東____==>_____倭人伝では、日本は済州島北岸を中心に時計方向に90°回転したFig. 9.4に示す位置にあると考えている。勿論、九州は蹄の一つであるから図に示す程大きいとは考えていない。伊都国と女王国を結んだ線分は、會稽と東冶を結んだ線分の東にある。対馬と壱岐は済州島と古賀市を結ぶ直線の三等分点にあると考えているから、対馬の西は東シナ海、東は太平洋になる。これが対海国の意味とも考えられる。対海国から一大国へは瀚海を渡とあるが、新漢語林によれば瀚の字義は「広大な」とあり、瀚海にはゴビ砂漠の意があるとある。太平洋の片隅を渡る意味と考えられる。
. . 自女王国以北特置一大率検察諸国畏憚之____==>_____女王国より西(伝・北)は一大率を特別に置く。一大率は諸国を検察する。諸国はこれを畏れる。英語の関係代名詞を用いた表現に相当する。この文の女王国は首長国のみを指している。新漢語林によれば率は「頭、統率者」とある。一大率は一つの大きな統率者である。
. . 常治伊都国於国中有如刺史____==>_____常は伊都国を統治する。伊都国は国中が州の長官の如くである。一大率は伊都国であり、女王国は伊都国を直轄地として統治し、伊都国が女王国より西(伝・北)の諸国を統治する。代々王がいて女王国に統属する意味である。この文に続いて始に帯方の解釈のところで述べた「王遣・・・使倭国」があり、王の使いの仕方が述べられ、次の文に続く。
. . 皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不特差錯____==>_____この文は伊都国から女王国迄の伝送は倭人が行うことを述べている。伊都国に到着すると倭人は皆港に出て隅々まで探して伝送し、文書贈遺の物は女王に届き、紛失するような物は無い。
. . 女王国東渡海千餘里復有国皆倭種____==>_____復有国の復の字義は「反復」と新漢語林にある。反復して国があるとは複数の国があるの意である。主島と複数の小さな属島の場合は全体を一つの国と考えているから、この文は同じような大きさの複数の島があることを意味する。この女王国は伊都国を含むとすれば、その北(伝・東)には島前(3島)と島後の計4島からなる隠岐がある。日本を90°時計方向に回転したFig. 9.4で女王国の東には奄美大島もほぼ隠岐と同じ位置にある。ここからは日本を回転したFig. 9.4で倭人伝の方位のまま読まなければならない。
Fig9_5
Fig. 9.5
. . 又有侏儒国在其南人長三四尺去女王四千餘里____==>_____その南に侏儒国があり、身の丈は三四尺、都を去ること四千餘理である。奄美大島の南方にあるのは北大東島、南大東島、沖大東島である。女王を去ること四千餘里とは女王の居る所、即ち、都を起点として四千餘里である。Fig. 9.4で、奈良は那覇の40〜50km程西になるから大東諸島までは東に400km程になる。通常の成人に対して極端に背丈の低い成人を侏儒(小人)というのに倣って、通常に国と呼ぶ程の大きな島が無く、三つの極端に小さな島だけからなる大東諸島を侏儒国と名付けた。当時の大東諸島は無人島であるが、くねった国(倭国)に住む人種はくねった人(倭人)であるように、侏儒国には侏儒が住んでいるとした。
. . 又有裸国黒歯国復在其東南船行一年可至____==>_____その東南に裸国、黒歯国がある。船行一年で行くであろう。旁国として記述された国については不明であるが、それ以外の国名で風俗習慣により付けられた国名は無いから、裸国、黒歯国は国土の形状を表すと考えられる。黒歯の形状に該当する島は佐渡島である。Fig. 9.5に示すように、佐渡島は島全体が二つの大きな山脈で構成されている。北の山脈を上歯列、南の山脈を下歯列に譬え、黒っぽい緑色であるから黒歯とした。裸の状態に該当する島は北海道である。Fig. 9.3の北海道の形を見れば男性のシンボルに譬えることができる。男性のシンボルを露にしている状態は裸であるから裸国と名付けた。Fig. 9.4の日本列島を回転した図では大東諸島は能登半島の東になり、佐渡島はその南であるが、北海道は東南になる。しかし、この図が示すのは二島の方位であり、実際は船行一年の距離にあるとしている。船行一年の距離を推定する手掛かりが続いて記述される。
Fig9_6
Fig. 9.6
. . 参問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里____==>_____参問すると倭地は海中洲島の上にある。Fig. 9.6に示す多数の島が密集する瀬戸内海の状況を述べている。小倉と奈良を結ぶ線の小倉大阪湾岸の距離は450km程であり、各島を中心に旋回するように島々の間を縫って航行すると500km程になるであろう。この距離が五千餘里であり、水行十日である。従って、船行一年は182500里程であり、1'の子午線の長さが20短里であるから9125'=152.1°の子午線の長さになる。この距離を東南方向に船行すると南太平洋を越えて南アメリカ大陸に達するであろう。インカを指すとも考えられるが、寧ろ方向が不正確でもっと東方と考える方が妥当である。大東諸島は東経131°15'であり、赤道上なら49°東へ行くと西経180°になる。更に、東へ103°行くと西経77°となる。ジャマイカがこの辺になるが、北緯20°くらいであるから更に遠くのハイチ、ドミニカ辺り迄行くであろう。佐渡島、東北、北海道を太平洋側に折り返したものがジャマイカ、ハイチ、ドミニカであるというマヤ人のもたらした伝聞に基づいて、ジャマイカを黒歯国、ハイチ、ドミニカを裸国とこの著者は考えている。
. . 赤道上の或る点で北西に向きを取って、そのまま直進すると、地球の軸と45°をなす平面で地球を切った円に沿って進むから、経度90°進むと北緯45°に達し、経度180°進むと出発点の反対側の赤道に達する。従って、方位は次第に南にずれて、経度90°進むと方位は真西を向いてしまう。マヤ人は海は平面であると考えていたから、たちまちに北し、たちまちに西して、二等辺直角三角形を描いて進めば北西に真っ直ぐ進むことが出きると考えた。しかし、この方法では方位のずれは更に大きくなる。夜、北極星を観測できる時は方位を修正し、又方位がずれて修正することを繰り返すが、 経度90°進んでも北緯45°に達することはできない。ユカタン半島の付け根、グァテマラ西岸を出発地とすれば北緯15°西経90°であり、西に90°進めば西経180°、即ち、東経180°となる。北海道は略北緯45°東経143°であるから、更に、西に37°進めば東経143°に達し、経度127°進んで北緯30°進むことになる。方位修正の程度にもよるが、マヤ人が北海道又は其の北に到着したと考えるのは妥当であろう。彼らは二等辺直角三角形を描いて北西に進んできたのであるから、カリブ海は東南の方向にあると考えた。黒歯国、裸国の方位と距離はこれに基づいたものでもある。又、彼らはハイチの半島に対応する渡島半島、及び、ジャマイカに対応する佐渡島は本来太平洋側にあった物が日本海側に反転したと考えた。そして、メキシコ湾に対応する日本海を西に進むことにより朝鮮半島に到達したと考えられる。
. . 北海道及び其の周辺には日本語でない固有の言語を話す民族が定住し、アイヌと呼ばれている。アイヌとはアイヌ語で人間の意味であると辞典にある。人間であるか否かは見れば分かるのに民族の名称が人間というのは奇妙である。他民族に人間でないといわれ、自分たちは人間であるとアイヌ語で応じたものが民族の名称を述べたと解釈されたのではないだろうか。蝦夷という民族の呼び名があるが、新漢語林によれば蝦は「がま、ひきがえる、蛙の大きなもの」、夷は「異民族」とある。蝦夷とは「蛙の異民族」ということであり、倭人がこの様に呼んだのである。マヤ人大移動にはカリブ海周辺の民族、特にハイチやドミニカの原住民も同行し、彼らの故郷であるイスパニオラ島によく似た地形の北海道や其の周辺に定住したのである。彼らが蛙の異民族と呼ばれた理由は彼らの水行の仕方にある。彼らが、Fig. 9.1及びFig. 9.2に示したように、直角三角形を描いて水行するのを見た大陸人や倭人は其の意味が分からなかった。同図に出発点から直角三角形の斜辺を描くと、其の連続線が実質的な進行路であり、普通はそれに沿って水行するのであるが、彼等の奇妙な水行は蛙が地上をジャンプして移動するように進行路に対して蛙跳びで水行しているように見えた。それは彼らの前世が蛙であるからに違いないと考え、彼らを蛙の異民族と呼んだのである。彼らは人種的にはコーカソイドに属すともモンゴロイドに属すともいわれ明確ではないようである。現在のハイチやドミニカはスペインやフランスの植民地時代にアフリカから連れてこられた黒人及び其の白人との混血であり、原住民は途絶え、遺跡等も存在しないようであるから人種的比較による明確化は困難である。
. . 邪馬台国とは大陸人らしい譬えであり、海洋民族や島国の民族はそうは考えない。日本の神話はイザナミ、イザナギの二神に始まるが、濁りを取れば、いさな身、いさな岐となる。いさなとは鯨のことである。いさな身とは鯨の身体、岐は二股であるから、いさな岐とは二股になった鯨の尾鰭である。Fig. 9.3を見れば明らかに、山陰山陽は鯨の頭、紀伊半島は胸鰭、東北は尻尾、北海道は尾鰭であり、正に鯨が尻尾を撥ね上げた姿である。古事記によれば二神は最初におのごろ島を造ったとあるが、何処の島か不明である。そのような島は存在しないのである。二神はおのおの島を造り、おのおの島に降りて島生みをしたという伝聞の「おのおの」が「おのごろ」に変化したのである。二神の造った島は男島と女島であり、男島は北海道、女島は東北地方である。北海道と青森県の形状を男女性器に譬えたのである。この神話は、神は性器を造ったのであり、それが性交して性器を持った子が生まれ、成長して親に成ったと述べている。卵が先か鶏が先かの議論に関する答えを示しているのである。最初の子は蛭子であったが、その原因は左から交わったからであるとある。Fig. 9.3の本州北部が稍下向きに反るように東北地方と北海道を太平洋側に折り返すと、鯨が尻尾を振り下ろした形になり、Fig. 8.2のキューバ、ハイチ、ドミニカのなす形になる。左から交わったとはこれを述べたものであり、その後、右から交わった、即ち、尻尾を撥ね上げた現在の状態になり、島生みに成功したと言うのである。蛭は体の先端と後端に吸盤を持ち、尺取虫のように体の中央を持ち上げたり下ろしたりして移動する。アラクラン礁の二つの島を体の中央を持ち上げた状態に譬え、後の島の周りの環礁を葦船に譬えて、蛭子ゆえ葦船に乗せて流したとした。その後、蛭子は竹島になった。日本の神話も又マヤ人のもたらした伝聞である。

おわりに

. . 古代史は伝聞やそれに基づく文書の記述を鵜呑みにして真実を解明しようとする。伝聞は、前の人に問い合わせて不確かな情報を再確認することの出来ない伝言ゲームと同じで、聞き間違いや思い込みで変化する。その変化は最初の伝言を知れば理解できるが、知らなければ変化しているか否かすら分からない。文字が考案され古代の記録が残されるようになったとき、その記録は文字の無い長い間に変化して伝えられた伝聞であり、真実である保証はない。ロゼッタ石やピラミッドテキストの記述、古代の著名な歴史学者の記述等は真実の証明がない限り只の伝聞であり、そのまま参照しても意味がない。真実を知るためには、文字が考案されるより遥か以前の情報を探し出さなければならない。その手掛かりは人類が出現してから今日迄かわることなく伝わる太陽の回転運動やその他の自然現象、地理、それらから導かれた法則、ピラミッドの示す諸常数等である。
. . 自然現象から導かれた諸法則は伝聞により変化しても、その真実性に疑問を持った者が何時でも自然現象に照らして修正することができるから正しく伝わる。キュービットという長さの単位は今日では地球の半径の長さで定義されるが、古代エジプト人は大地が球面であることは知らなかったのであり、キュービットの定義は不可能な筈である。そこで超人的な存在、宇宙人や神が出現する。キリスト教の聖書には神の手で地球を測ったとの記述があるという。第一章に述べたように太陽の南中高度を測定すれば、大地を平面と看做したときの太陽迄の距離を三角測量で求めることが出来、それが地球の半径にほぼ等しいことは幾何学的にも証明できる。古代エジプトの時代から4000年を経た今日、著者は神事と化した伝聞を太陽の詳細な観測により正しく修正することができた。
. . ファーレンハイトが1714年に華氏温度を制定してから28年後にセルシウスが摂氏温度を制定したが、既に華氏温度が広く普及しており見向きもされなかった。そこで、ファーレンハイトの死後に、セルシウスは華氏温度は非科学的であると誹謗中傷を行った。その誹謗中傷が伝聞として今日に迄伝わり、華氏温度制定の根拠として百科事典にも記載されている。更に、その伝聞に基づいて華氏温度は非科学的であるから廃止すべきとの議論まで行われている。真実は、ファーレンハイトは実験式を物理学に導入した最初の物理学者であり、詳細は第一章に述べたように、ぶどう酒を用いた凍結実験から実験式を導いてアルコール濃度約28%の水溶液の氷点と水の沸点を用いた華氏温度を制定したのである。セルシウスや当時の物理学者は実験式を理解せず、ファーレンハイトの用いたぶどう酒の色から血を用いたとか、人間の体温を用いたとかの非科学的との誹謗中傷をセルシウスは行ったのである。
. . 伝聞は上記のように真実とは程遠いものである。古代の文書を解釈する時に、古事記にはこう書いてある、日本書紀にもこうあるとかの参照により解釈の正当化をするが、古事記も日本書紀も同じ伝聞に基づく伝聞であり、それが真実であるとの証明がない限り意味がない。自然科学を通して古代人の考え方を理解し、その考え方に基づいて古代文書という伝聞から真実を読み取ることがこれからの考古学には必要であると著者は考える。著者はこの様な手法を科学的考古学と呼びたい。本著の内容は従来の考古学書に記述された内容とは多くの点で異なっている。それは、特定の物品が落ちていたり、落書きがあれば証拠であるとか、ロゼッタ石やピラミッドテキストの記述、古代の著名な歴史学者の記述等は真実であるとする考古学と科学的考古学の違いである。(完)

目 次 へ