6. 第一ピラミッドの設計
. .彼らはピラミッドの設計に際して大地を含む天空全体の模型図を描く必要があると考えた。そのためには、日毎に変わる太陽の南中位置が描く円弧の縮尺図を決定しなければならない。第一章9節で述べたように、太陽は4年=1461日を周期として回転しており、1回転の円周長は360°Lであるから総円周長は1461×360°Lであり、これは太陽の南中位置が描く円を一周する円周長に等しいと考えた。第一章12節で述べたように、彼等はこの長さを4000万メートルと定義した。円周長が360°Lの円の半径は57°17'48"Lであるから、太陽の南中位置が描く円の半径は、 . . Fig. 6.1にその図面を示す。太陽は円の中心Oの真上のSmから南に45°のWn迄の円弧を1年に1往復する。第一章8節で述べたように、ファイユーム近辺の北緯29°27'において太陽が北回帰線にあるときの南中高度は84°であり、Smから−84°の直線を引けば観測点はこの上にある。太陽が南回帰線にあるときは、第一章9節に述べたように、太陽が地面に垂直な線となす角度は52°54'であり、南中高度は37°6'である。Wnより−37°6'の直線を引き、Smから引いた−84°の直線との交点Fを求めればここが観測点であり、太陽が南北回帰線にあるときの南中高度の差は、84°−37°6'=46°54'である。彼等は、太陽の真の回転角度はOを中心として45°であるが、観測点が水平線S-Nより高い位置Fにあるので、この角度回転するように見えると考えた。Fを通る水平線が垂直線O-Smと交わる点Aと円の中心Oとの間隔を測定すれば147.35mを得る。これが古代エジプト人の考えた大地の高さである。Wnにある太陽を観測点Fで見た角度に垂直な平面が遥か南方にあると彼等は考えたのであり、その角度は水平面に対して52°54'となる。 Fig. 6.1 . . これらのおおよその関係はFig. 6.1に示すようになるが、ここに興味深い関係が見出される。太陽の回転軸の角度は北方に地面より上向きに26°42'50"であるが、遥か南方の斜面に対しては南方に斜面に対して26°11'10"上向きである。太陽の回転面の角度は南方に地面に対して上向きに63°17'10"であるが、遥か南方の斜面に対しては北方に斜面に対して63°48'50"上向きである。これらの関係は対称性があるように思える。 . . 古代エジプト人は、太古の大地は東西南北に52°の斜面を持つ四角錐の頂上部を切り取った形であり、Fを通る水平面の上にあったが、彼等の時代には上部は崩れ、全体が海中に沈んで147.35mの高さの大地が海面に出ているのであると考えた。そして、元の太古の大地の模型を造ろうと考えたのである。太陽は最北の回転面N-Smと最南の回転面S-Wnの間を回転しながら移動しているのだから、太古の大地はこの間に入る出来るだけ大きな四角錐とする。作図を簡単にするために、頂上部を切り取った平面の高さを線分A-Smの二分の一のPとし、Pを通る水平線が線分F-Smと交わる点をQとする。Pを通る52°の直線が南斜面を表し、Qを通る−52°の直線が北斜面を表す。両者の交点Tが大四角錐の頂点である。両者とFを通る水平線との交点をそれぞれB、Dとすれば線分B-Dは大四角錐の底面を表す。これらの間の各寸法の測定値は図に示した通りである。 . . 天空の縮尺図としてシリウスとその回転軸及び回転面も欠かせないものである。シリウスの南中高度は第一章13節に述べたように43°50'であり、回転軸は太陽の真の回転軸と同じで北極星の高度29°27'である。しかし、彼等はこれも147.35mの高さのF点で観測していることによる見掛けのもので、正しくは円の中心Oと北極星Poを結んだ直線の角度31°49'12"の端数を切り上げた32°であるとした。従って、シリウスの回転面は地面南方に対して58°となる。シリウスの南中高度も見掛けのものであり、真の値は円の中心Oにおける太陽の最小南中高度45°に同じであると考えた。太陽は大地を走査する必要からこの南中高度を90°迄変えるが、シリウスは走査しないから南中高度を変えないと考えたのである。従って、Siより−45°の線を引き、シリウスの回転軸を表す32°の線分との交点Rを求めれば、この点が彼等の考えるシリウスの正しい南中高度と回転軸の角度を観測できる点である。後に述べるが、この点は王の間と呼ばれる部屋の位置を決める。 . . 一応、天空と大地に関する重要なものを大図面に縮尺して描いたが、未だひとつ重要なものを描かなければならない。それは、今、大地に描いている大図面の縮尺図をこの大図面の中の対応する場所に描き込まなければならないということである。Fig. 6.1にはそれを描き込んである。そこに描かれた四角錐が建造すべきピラミッドである。そのピラミッドの高さを大図面の大地の高さ147.35mであるとした。従って、その小図面は大四角錐の高さ701.01mを147.35mに縮尺する縮尺率0.2102で大図面を縮尺したものである。両図面における各部の寸法及び角度を表6.1にまとめて示す。
. . 大四角錐の頂点Tは太陽の南中高度が90°になる点Aより北にあり、PがAの真上に来ている。同様に、頂点Tは太陽の南中を示す線より西にあるべきと彼等は考えた。従って、頂点T及び頂上部平面と中心Oを通る南北を示す線S-N及び東西を示す線E-Wの関係は頂上付近に示した上面図のようになる。線分S-Nは太陽の南中位置の真下であり、太陽の東西方向の回転の軸はこの上にある。地下への下行通路が頂上部平面の東の辺P-Qの真下にあるのはこのためであり、頂点の真下より線分P-Qの長さの二分の一だけ東よりとなる。ピラミッドでは地下への下行通路の入口は中心線より7.25m東よりとなる。 . . 太陽がSpにあるときの回転面を表す直線Sp-Sp'が線分A-Fと交わる点より垂線を下ろし、円の中心Oを通る水平線と交わる点をCとする。Cは大四角錐の頂点のほぼ真下になり、Cより角度26°の直線が大四角錐の北斜面Q-Dと交わる点をGとすれば、Gは地下への入口、G-Cは下行通路、Mは下行通路が地下へ入る点である。Cの先は水平通路となり、水平通路C-Oの先に玄室といわれる部屋が造られるが、ここは王の間といわれる部屋のほぼ真下になる。これら各部の寸法及び実測された値を表6.2に示す。地下への下行通路は太陽の東西方向の回転の軸を表し、玄室といわれる部屋は東西に長いが、これは太陽の南中高度を変える回転軸を表している。
. . ピラミッドを建造する位置を決めるには大図面の中に描く小図面の位置を決める必要がある。大図面は大地に描いているから、小図面の大地を表す線分A-Dは大図面の大地を表す線分A-Dと重ならねばなない。小図面の太陽の南中位置を示す円の中心Oを通る垂直線は、大図面のシリウスの回転軸を表すOを通る勾配32°の線分上のRを通らねばならないと定めた。従って、小図面はFig. 6.1に示す位置に描かれる。ピラミッドの中心線は上部平面の一辺の半分7.25mだけ小図面のOより北になる。又、上から見た場合の頂点Tは線分S-Nより7.25m西になる。
. . 第一ピラミッドの実際の位置をFig. 6.3に示す。世界大地図館(小学館)の地図を図形処理ソフトThe GIMPに読み込んで計測した距離を記入してある。第一ピラミッドの底辺長が実測値として知られている値になるような定規で第二ピラミッドを測ると実測値として知られている値より10m程短い結果になる等、地図の精度があまりよくないようであり、第一ピラミッドの位置もFig. 6.2に示す設計値とは2m程の違いがある。スフィンクスの最後部もかなり削られていると考えられ、地図上で後ろの壁のあたりから測定してある。しかし、設計値は実測値と十分よく一致するといってよいであろう。 7. 第一ピラミッドの地上部内部構造の設計. .彼等は大四角錐の南斜面に相当する斜面の実在を確認できなかったので彼等の時代には太古の大地は海中に相当沈んでいると考えた。又、ナイルが毎年の増水期に大量の土砂を下流に運ぶことからその上部は殆んど崩れてエジプトの大地を構成していると考えた。その大地に大図面を描いているのだから、沈んだ状態の大四角錐を大図面に描き込む必要があると考えた。彼等の考えた太古の大地を表す大四角錐と沈んだ状態の大四角錐の位置関係及び内部構造をFig. 7.1に示す。その関係は次の手順で決定される。. . シリウスSiから引いた−45°の線分と南回帰線にある太陽Wnから引いた−45°の線分がそれぞれ大四角錐の南斜面と交わる点を南斜面上でずらさないように大四角錐を沈め、後者と交わる点が大地の高さの水平線に達したところで止める。このとき頂点Tも−45°で沈むので、沈んだ大四角錐の頂点を示すTの右横に頂上部の一部を示す位置にある。このときシリウスの回転軸であるO-Poと沈んだ大四角錐の北斜面との交点は南斜面のHより高い位置にある。Hより引いた水平線がシリウスの回転軸であるO-Poと交わる点をJとすれば、沈んだ大四角錐の北斜面が点Jを通る位置まで、南斜面に沿って南斜面を滑らせることにより大四角錐を更に沈める。ここが彼等の時代に太古の大地である大四角錐が沈んでいる位置である。 . . シリウスSiから引いた−45°の線分とシリウスの回転軸であるO-Poとの交点Kを通る垂直線は王の間と呼ばれる部屋のほぼ中央であり、この垂直線上に大図面を縮小した小図面内の太陽の回転円の中心があるとしてFig. 6.1の小四角錐、即ち、建造すべきピラミッドの位置は決められた。厳密に言えば、この垂直線を中心に全体を0.2102に縮小した小四角錐を大地を表す水平線まで浮き上がらせたものが建造すべきピラミッドの位置である。しかし、その違いは僅かであり、定規を用いた手書きの作図ではその差を見出すのは困難であると思われるし、説明の都合上から簡単にした。 . . 点Kより水平線を引き、沈んだ大四角錐の中心線との交点から引いた−26°の線分が地下への下行通路と交わる点wは地下への下行通路と上昇通路の分岐点である。北斜面の下行通路入口Gからこの分岐点w迄の距離は142.44mであり、0.2102に縮小したピラミッドでは29.94mとなる。以後、内部構造の寸法は縮小したピラミッドでの値を示す。分岐点の構造を明確に示した文献は見当たらないが、得られた情報だけから判断すると、上昇通路の入口は下行通路の天井にあることになる。このような構造では、両天井の交点を分岐点とするか、下行通路の天井と上昇通路の床の交点か、下行通路の床と上昇通路の床の延長線の交点か、各通路の高さの中心線か、その場合は高さが異なるときはどうするか等により実測値は異なる。本設計では原則として床と床の延長との交点とする。 . . 上記のwに至る−26°の線分が太陽の回転円の中心Oを通る水平線と交わる点xが上昇通路の終点であり、この水平線が沈んだ大四角錐の中心線と交わる点qが王妃の間と呼ばれる部屋の中心である。上昇通路w-xの長さは38.03mで高津道昭著の文献と一致するが、王妃の間の南北幅は5.23mとされており、半幅の2.62mをx-qの長さ40.41mから引くと水平通路の長さは37.79mとなり、同文献の実測値35mとはかなり異なる。しかし、水平通路の天井の高さの実測値は1.25mとあるので、天井迄上昇通路の床を延長した交点から測ると、王妃の間の中心までは37.85mであり、部屋の半幅2.62mを引くと水平通路の長さは実測値にほぼ等しい35.23mとなる。部屋の床の高さは底辺B-Dより20.99mで実測値20.67mとよく一致しているので水平通路の実測値は天井で測っていると思われる。大回廊の床は階段になっており、大四角錐の右の四角枠内に拡大図を示すように、階段壁が水平通路の天井で終わっていて、そこまでを水平通路としているものと思われる。 Fig. 7.1 . .王の間付近の拡大図を右上の四角枠内に示す。シリウスとKを結ぶ線分が南斜面と交わる点Hは通気口と呼ばれる点で、太陽の南中高度84°を表す線分と線分K-Hとの交点を通る水平線が四角錐TBDの中心線と交わる点をyとすれば、yは大回廊の終点で水平線は水平通路及び王の間の床である。四角錐の底辺B-Dから床までの高さは42.19mであり、実測値は42.48mである。yから−26°の線を引き、王妃の間の水平通路の床q-xの延長との交点z迄が大回廊で、その長さは48.36mで実測値は48mである。線分y-zの延長を上昇通路の天井としてあるが実際の構造は不明である。これが正しければ、大地に垂直に測った上昇通路の天井の高さはKから王の間の床までの高さと同じ1.49mとなるが不明である。上昇通路の床の延長線は大回廊の階段の段壁の下端、線分y-zは上端を結ぶ線分としたがこの構造も明らかにされていない。太陽の回転円の中心Oを通る垂直線と線分K-Hの交点aから−26°の線を引き、y及びzにおける垂直線で切り取った線分が大回廊の天井を表す。y又はzにおける天井の高さは8.81mであり、実測値は8.5mである。大回廊の天井も階段状になっており、この線分は段壁の下端を結んだものと考えられる。
. . 第一ピラミッドには他にも幾つかの構造が見られるがそれらは後から作られたものと考えられる。王妃の間には通気口のような穴が南北に開けられ、15m程で終わっている。設計が変更されたとの説があるが、それは終端を調べれば分かる。建造時に作った穴なら石を積んだ後に下から穴を掘るようなことはしない。予め穴を開けるか、穴の部分を切り欠いた石を積むのが簡単で正確である。従って、設計変更なら終端は傷のない石をおいて塞いであるに違いない。又、鑿の使い方を王の間の通気口と比べても分かるであろう。これらは後から掘ったものであり、人一人通れる程度の穴では太陽光の反射光は使えず、ロウソク程度の灯りを使用したと思われるが、15m程で酸欠のため中止せざるを得なかったと思われる。 . . 上昇通路の終点と下行通路を結ぶ井戸坑と言われるものも後から作ったものであろう。これ以外の内部構造は直線で設計されている。一つだけ不規則な曲線で作るのには特別重要な意味がある筈であるが、上記の内部構造の意味において必要がない。この穴は後から掘ったものであるが、下から掘ったとすればその時既に下行通路は発見されていることになり、上に行くのにわざわざ地下から掘るのはおかしい。上昇通路の入口の塞ぎ石を迂回する筈である。従って、上から掘ったものであるが、アル・マムーンが開けたといわれる侵入路から上昇通路を昇り、下に掘ったと考えるのもおかしい。下に行きたいなら上昇通路の登口付近から下に掘る筈である。外から通気口を発見して王の間に入り、大回廊を下り、下行通路を探して掘ったと考えられる。上昇通路、大回廊、水平通路は砂を詰めて水を含ませ、打ち固めた上に石を載せて漆喰で張り合わせて天井を作ったと思われる。大回廊は天井が高いから床のあたりに人一人通れる穴を掘っても崩れない。Fig. 7.1の四角枠内の拡大図に示すように、大回廊は階段壁で終わっているので階段壁に沿って掘った縦穴は水平通路の床まで達する。上昇通路の床の終点xは3m程離れた所にあり、その構造を知らない以上、危険な横穴を掘って床面を探索するよりは床を堀進む方を選んだ。やがて地下へ十分入ったことが掘削壁の状況から分かるが、下行通路も水平通路も現れない。そこで地下の間を探すため穴の角度を変えたが、再び縦に掘れとの指令が出て掘り進んだところ下行通路に突き当たった。これが井戸坑の作られた経緯であると思われる。従って、これを命じた者は下行通路や地下の間の存在を知っていたことになる。 . . ピラミッドの外観を破壊することなく内部を調べたいとき、外から下行通路を掘り、水平通路が十分ピラミッド内部に入ったところで上昇通路を掘ればよいことは容易に着想出来る。第二ピラミッドにはこのような通路が付けられている。この通路を掘った者は下行通路、水平通路、地下の間の存在を知り、下行通路の入口が北斜面中央線上の地上高11m程の所にあることを知った。第一ピラミッドはほぼ同じ大きさであるからほぼ同じ位置に入口があるだろうと考え、少し下の地上高8m程の化粧石を外して水平坑を掘ったが、下行通路に突き当たる筈の距離以上に掘っても突き当たらない。そこで北斜面を調査して通気口を発見し、上記の経緯を経て下行通路を発見した。それを登り、上昇通路への分岐点らしきものを見つけ、下行通路の入口が予想より遥か高い位置にあり、しかも、北斜面の中央線よりも相当東にあることも分かった。しかし、そこを破壊して入口を開くことはしなかった。今掘っている水平坑を東よりに進めれば下行通路又は上昇通路の入口らしきところの上に突き当たると考えたからである。そして上昇通路に突き当たった。 . . これを行ったのはクフ王に違いない。クフ王はピラミッドの内部構造について神官に尋ねたとか、神を冒涜したとかいわれる。彼の時代にはこれらのピラミッドは神が創ったと考えられていた。そのピラミッドを暴いたから神を冒涜したといわれるのであろう。彼は砂を掻き出して内部構造を調べたが、100m程もある穴の中で多人数による作業では換気を必要とする事態になった。そこで王妃の間に通気口を付けようとしたが僅か15m程掘っただけで中止せざるを得なかった。王の間の通気口から人一人通れる穴を掘ったときは、掘った砂や岩屑を小さな布袋に詰めてピラミッドの外に運んで捨て、外の空気を詰めて持ち込むことにより換気することが出来た。しかし、上昇通路を確保した後は小さな布袋で外迄運ぶのは効率が悪いから上昇通路から先は大きな箱等に空けてまとめて運んだであろう。従って、掘削中の通気口の換気は王妃の間や水平通路の酸素不足の空気で行うこととなり、換気能力に限界があつたのであろう。酸欠による事故の多発により、クフ王は調査を中止し、侵入口を塞いで化粧石を元に戻して修復した。アル・マムーンはその修復の痕跡を発見し、そこを爆破したというのが真相ではないだろうか。彼がこの侵入坑を掘ったとすれば、花崗岩の塞ぎ石の下に何があるか確認するために縦穴を掘ったであろう。又、上昇通路の砂は掻き出したであろうから井戸坑が掘られる理由がなくなる。 8. ナイルの水はイシスの涙. . 古代エジプトの宗教といえば太陽神崇拝のみが言われるが、太陽神は唯一神ではない。夜空に輝く星の動きは全て、最高の光度で輝くシリウスと同期している。太陽も四年を周期としてシリウスに同期しているのであり、シリウスが太陽に同期しているとは誰も考えることは出来なかった。天体全てがシリウスに同期しているのは、それら全てを一人(神)の神が造ったからであると第一ピラミッドが建造された頃のエジプト人は考えていた。その神はシリウスを制御する神イシスである。ここに万物の創造主を唯一神とするキリスト教の起源が有る。しかし、彼等の自然科学の進歩と共にイシスは唯一神の地位を追われることになる。そして太陽神が出現することになるのである。. . 太陽の本来の意味は「日」ではないし、太陰の本来の意味も「月」ではない。これらは古代エジプト語に対応するものであるが、本来はある状態を表す言葉である。英語では形容詞solar及びlunarであり、日本語よりはそれをよく表している。しかし、lunarには青白いという意味もあり、青白い光を放つのはムーンではなくシリウスである。「太」の意味を国語大辞典で調べると、「神や天皇などに関する名詞・動詞などの上に付けて、壮大である、立派に、などの意を添え、これを賛美する意を表す」とある。「陽」とは光のあたる状態であり、「太陽」とは「壮大なる日当たり」であり、一年に365回有る日の出の中の特別な日の出を意味する。従って、「太陰」とは一年に365回有る日の入りの中の特別な日の入りである。即ち、一年の始まりを決める日の出が「太陽」であり、一年の終わりを決める日の入りが「太陰」である。しかし、これらの日の出、日の入りが一年の始まりと終わりを決めるという意味が薄れるに従い、「太陽」は「日」の別称となり、その結果「太陰」は「月」の別称となってしまったのである。 . . 太陽暦も太陰暦もなかった時代の古代エジプト人は「日」とシリウスが同時に昇った日を一年の始めと考えていた。これは今日の7月24日に相当し、日南中高度が最高に近い頃である。彼等は又、一日の始まりは日の出であると考え、整数しか知らない彼等はこの時刻を1として一日を四つの時刻に分けた。やがて、彼 等は「日」の高度が最も高い2の時刻が一日の真中であり、夜中の4の時刻が一日の始まりであることに気が付いた。同様に、日南中高度が最も高い頃は一年の真中でなければならないと考え、6ヶ月後の1月24日に相当する日を一年の始まりとした。 . . 第一章14節に述べたように、「日」とシリウスが同時に昇ってから137日間は次第にシリウスが高い位置に来てから日の出となりシリウスは消えるが、それから1月23日迄は東に昇り西に沈む迄シリウスを見ることができ、シリウスが西に沈んでから次第に遅れて日の出になる。その結果、23日の晩は日が沈むのと同時にシリウスが東に昇る。この状態が特別な日の入り、即ち、太陰なのであり、この日を一年の終わりと定めたのが太陰暦である。英語ではこの状態を青白い光を放つシリウスが昇った方に注目してlunarと表現する。「月」では一年の始まりも終わりも決めることは出来ない。この頃は未だシリウスが主体であり、イシスは唯一神であったが次第にその主体性は失われていく。 . . 「日」とシリウスが同時に昇る日を一年の始まりとしていた頃は、「日」はシリウスに先導されて昇ってくるように見えた。昼間の明るい光を人々に与えるのは「日」であるがその状態を作るのはシリウス、即ち、イシスであり、「日」はその道具にすぎなかった。しかし、太陰を一年の終わりとしたことによりシリウスが昼間の明るい光を与えるために「日」を先導するという考えが失われた。その結果、太陰より46日前に東に昇ったシリウスが西に沈むと同時に日が昇る現象の起こる12月8日を一年の始まりとすることになる。この日の出が特別な日の出、即ち、太陽なのであり、この日を基準とする暦が初期太陽暦である。この日が一年の始まりであった時代のある証拠は今日の日本にも有る。国語大辞典で「正月事始」の項目に12月13日のこと。12月8日とする地方もあると述べられている。初期太陽暦の時代はあまり長くなかったであろう。太陽から太陰までのシリウスが東に昇り西に沈む迄観測できる期間は一年の始めにしかなく、シリウスを全く観測できない期間は半年後、一年の後半の始めにしかない。対称性を考えればこれらは一年の前半と後半に半々に分けるべきと彼等は考え、一年の始めは太陽と太陰の中間日に決定された。これが今日に迄伝わる太陽暦である。その結果、太陽と太陰の本来の意味も忘れられることになったのである。 . . 第一章11節に古代エジプト人は1年が365.2422日であることを知ることが出来たと述べたが、彼らがこれを知らなくても彼らの歴が季節とずれることはけっしてなかったのである。イシスが唯一神であった時代にはシリウスを見ることの出来ない日が40日以上も続いて、最初にシリウスが昇るのを見た日が一年の初日であり、太陽の上縁が現れたときシリウスが太陽の半分ほど昇っていればその年は366日過ぎないと次の年の初日にならないので閏年の調整は自動的に行われる。今日では4年毎に閏年としているので400年に3回閏年を平年に戻す調整が必要であるが、その平年に戻すべき年は太陽とシリウスの僅かなずれのために365日過ぎた次の日シリウスが現れるので自動補正される。太陰暦でも太陽暦でも同様であり、太陽暦について言えば、シリウスが見えない日が続いて最初に東に昇るのが見られた日を7月24日とすればよい。しかし、古代エジプト人には必要なかったであろうが、この方法の欠点は今から何日前は何年何月何日かは記録がなければ分からないし、何日も未来の年月日はその年が来なければ分からないことである。 . . このようにして太陽暦が確立される過程で太陽が重んじられるようになり、イシスの唯一神としての地位は失われていき、太陽神が台頭してくるのであるが、彼等は太陽神を唯一神と考えることは出来なかった。天体全てが太陽に同期しているとは誰も考えられなかったからである。そこで苦しい言い訳が考えられた。たしかに天体全てはシリウスと同じ動きをしているように見えるが、東に昇る時刻も夜空に有る位置もてんでんばらばらであり、とてもシリウスに同期しているとは言えない。てんでんばらばらなのは、其々の星はそれを支配する別々の神が勝手気ままに創ったからである。更に、万物には其々を支配する別々の神がいるという多神教の時代へと移っていくのである。そして、太陽神はそれら神々の頂点に立つ王であり、人間社会が王を頂点とする構造であるのは神の社会が同じ構造にあるからであると考えたのである。日本神話では太陽神を「天照大御神」と言うが、「大」は正しくは「王」であり、「天照らす王なる神」である。しかし、日本には王制はないから「天照らす皇なる神」、即ち、「天皇神」である。人間の社会は神の社会構造を映すのであるからその頂点に立つのは天皇となる。 . . 多神教の時代になり、イシスは単にシリウスを支配する神に降格されてしまった。そして、毎年太陽とシリウスが同時に東に昇るヘリアカル・ライジングと言われる時になると、イシスは昔唯一神であった頃のことを思い、今の地位を嘆き悲しんで大量の涙を流す。それがナイル源流域に雨期をもたらし、ナイルの大洪水を引き起こすと言われるようになり、「ナイルの水はイシスの涙」と語り伝えられることとなる。又、イシスの地位の降格にもよりシリウスに基づくデータは以後のピラミッドには用いられなくなる。 . . キリスト教では復活をイエス・キリストが処刑されて後再び生命を得たこととしているようであるが、人間が死後に再び生き返ることはない。復活したのは人間ではない。唯一神であったイシスがその地位を追われ、太陽神を王とする八百万の神々の支配する多神教の時代となったが、やがて、再び万物の創造主を唯一神とする考えが興った。即ち、唯一神の復活であり、イシスの復活である。宗教の権力者はイシスをイエスに変えて人間イエスの復活を主張したのである。 9. 第二ピラミッドの設計. . 第一ピラミッドの設計書は第6節のFig. 6.1を中心とする部分、第7節のFig. 7.1を中心とする部分、設計完成図Fig. 7.2の三つに分散し、それぞれ別のピラミッドの設計書とみなされることになる。その原因は当然に権力争いや勢力争いであると考えられ、先に述べた伝言ゲームに見られるような変化を受けて後世に伝えられることになる。設計完成図Fig. 7.2は第4節のFig. 4.1, Fig. 4.2に示したように初期王朝時代には神話を表す図に変化してしまった。Fig. 6.1を中心とする部分は第二ピラミッドの設計の基になり、Fig. 7.1を中心とする部分は第三ピラミッドの設計の基になる。第三ピラミッドはそれを明確に示しており、沈んだ大四角錐の縮小模型を造ったもので、Fig. 7.1を見れば明らかなようにほぼ三分の一が地平線の下にあるのでその部分をアスワンで地上に露出している赤い花崗岩の化粧石を使って赤くしてあるのである。又、両ピラミッド共設計データは伝言ゲームと同様にその細部が変化していく。. . 第二ピラミッドの設計においてはFig. 6.1で示したような綿密な考察は行われていない。設計図や設計書が充分揃っていないか、十分解読ができないためピラミッド建造に必要な部分だけ推測によりデータを決定して設計している。ヒエログリフという十分発達した文字を持つ王朝時代では起こり得ないことである。第一ピラミッドの設計では日南中高度を示す太陽の回転半径は1461mであるが、第二ピラミッドではこれを1440mとしている。下二桁が明確でなく、1461mに決定した根拠も解読出来ないため第一章第2節及び第6節で述べた長周期の値1440に違いないと推測したものである。第一ピラミッドの設計では大地の高さは半径1461mの0.100856倍の147.35mであるが、これも下3桁が不明確なため半径1440mの0.1倍の144mとしている。従って、第二ピラミッドの設計高さは144mである。石の張り合わせに用いた漆喰の圧縮による圧縮率を第一ピラミッドと同じ0.99462とすると、建造された第二ピラミッドの高さは143.23mとなり、実測値は143.5mとされている。実測値から計算される圧縮率は0.99649となる。 . . 第一ピラミッドの設計では太古の大地を表す大四角錐の頂上部を切り除いた高さは太陽の回転半径から地平線の高さを引いたものの二分の一であるが、第二ピラミッドでは大四角錐の頂点までの高さが回転半径の二分の一、即ち、720mとし、頂上部に平坦部は造られていない。この大四角錐を高さ144mに縮小したものが第二ピラミッドになるのでその縮尺率は0.2であり、第一ピラミッドの縮尺率0.2102の端数を失ったものとなる。第一ピラミッドの頂上部に平坦部がある理由は、沈んだ大四角錐の上部が崩れて出来た平坦部に古代エジプト人が住んでいるように、太古の大地にも太古のエジプト人が住む平坦部があったという考えに基づくのであるが、第二ピラミッドの設計ではそのような考えも失われている。
. . この角度は太陽が南回帰線にある時の南中高度に直角であり、この角度αと北緯θの関係は第一章9節に述べたようにα=θ+23°27’であるから、観測点は北緯29°48'27"となり、ギザ北緯30°1'より12'33"南となる。緯度1度の距離は約110kmであるからこの地点はギザの南約23kmの地点となる。ギザにピラミッドを建造するために、それよりも23kmも南の砂漠の中で日南中高度を測定するとは考えられないからこの観測点は王の居住地と考えられる。従って、第二ピラミッドを建造した王はカイロ北緯30°3'の南約25kmのメンフィス辺りに居住した王で、第一ピラミッドを建造した王を倒し、我こそはエジプトの王なりと宣言したものである。第二ピラミッド以降のピラミッドは王の権威、権力を誇示するために建造されたものである。 . . 第二ピラミッドの設計に際して彼らが考えた太古の大地を表す大四角錐はFig. 9.1の三角形TBDで表される。太陽は中心Oの真上のSmから南に46°54'の角度迄を一年に一往復すると彼らは考えた。この点も第一ピラミッドの場合と異なる点である。南中の太陽が真中の23°27'のSpにある時の太陽の一日の回転面を表す線分を引き、中心Oを通る水平線との交点Fを求める。後に述べるが、この回転面の角度は63°26'6"である。点Fを通る角度26°の直線と北斜面の交点Gを求めればGは下降通路の入口である。点Fを通る垂直線と、大図面全体を0.2に縮小した図の中心を通る垂直線が重なり、両図面の四角錐の底辺が重なるように小図面を描けば、この小図面の四角錐が建造すべきピラミッド及びその位置である。小図面の円の中心を通る水平線が大図面の線分OAと交わる点Cは大四角錐の地下の間、線分FGと交わる点をMとすれば、線分GMは下降通路、線分MCは水平通路である。これらも0.2に縮小して小図面に描き込まなければならない。この縮尺率は第一ピラミッドの縮尺率0.2102の下三桁を失ったものである。 . .大四角錐及び第二ピラミッドの各部の設計値と実測値を表 9.1に纏めて示す。ピラミッドの実際の高さは漆喰の圧縮による圧縮率を掛けたものである。下降通路の長さ以降については正確なデータがないので実測値は?とした。高津は下降通路の長さは50mとしているが、これだと入口より22m、地下11m迄下ることになり、水平通路は地表すれすれという記述と合わない。第二ピラミッドの前にある内部調査のための侵入路は22°の勾配で50m下り、地下15mに位置する水平通路に移るとあるが、地下18.7mでなければならない。侵入路はその後40m上るとありその勾配は記述していないが、他の文献の図から見て同じ22°の勾配と思われるので15m上ることになり、水平通路は地下3.8mとなるが信頼性に乏しい。地下の間には第一ピラミッドの王の間にある石棺よりやや大きい石棺があるが、これは男神である太陽神のベッドだからである。
10. 古代エジプト人の製図画法. . 古代エジプト人の描画法は線画である。線画では陰影を付けることが出来ないから立体感のある絵を描くことが難しい。我々現代人も正確な図を描く製図では線画を用い、正面図、側面図、上面図を描く。そして、これ等を見たとき、これらから脳裏に立体図形を構成して立体的な認識を行う。古代エジプト人も同様の図を用いるが、彼らは一つの物体に対してこれらの三図面を描く描画法は知らない。その物体の部分部分について最も正確に描くことが出来る方向から見た図を描き、全体を一つの図に纏める。. . 例えば、人間が歩いている状態を正面から描く場合を考える。髪型を含む頭の形状は横から描く方がその特徴を良く表せる。鼻の高さや形状も横からでないと描けない。従って、頭と鼻は側面図を描くが、目は正面からの方がその形状や表情を良く表せるから正面図を一つだけ横顔に付ける。胴体は逞しい逆三角形状や撫で肩等の形状を表すために正面図を描く。前後に振られる腕は前からでは描けないから側面図を描く。手も指を正確に描くために側面から描く。前後に交互に出す足も正面からは描けないから側面から描く。我々はこれを見たとき変な図であると思うが、古代エジプト人は人間が歩いている様子を正面から見た立体図形を脳裏に描く。我々が正面図、側面図、上面図を見て脳裏に立体図形を描くのと同様であり、多少の知識と訓練を必要とする。 . . 古代エジプト人はピラミッドの設計図を見たときもこの様な見方をする。ピラミッドが正四角錐であることを立体的に描くには底面四角形の対角線よりの方向のやや上方から見た図を描くのがよい。しかし、これでは高さや底辺の長さ及び底面に対する斜面の角度等を正確に表せない。各部の寸法や角度を図面から読み取らなければならない彼らの設計には全く役に立たない。そこで、大四角錐及びピラミッドは北東の方向から見ているのであるが、図面は各部の寸法や角度を正確に表せる東から見た図を描く。これが第一ピラミッドの設計図Fig. 6.1であり、大四角錐頂上部の三角形は第一ピラミッドと第二ピラミッドを北東から見た重なり状態をそれぞれの原像である大四角錐の重なりで表していると見る。これから第一ピラミッドとその大四角錐を取り除いたものが第二ピラミッドの設計図Fig. 9.1である。上面図Fig. 9.2に示した大四角錐底面の北東向きの対角線上にある第二ピラミッドと大四角錐の関係を寸法や角度を正確に表すために東から見た図に描いたものである。これは第一ピラミッドとスフィンクスの位置関係の実測結果により、第一ピラミッドは大四角錐の北東の角にあると考えたことによる。一方、地下の構造は南北方向にあるものをそのまま描いている。これらの各部の視点の位置は必要なら図面外の設計書に記述される。 . . 第三ピラミッドは第一ピラミッドの設計書のFig. 7.1の部分を基に設計されているが、同図は実際には更に複数の図面に分割されていると考えられ、設計の基にされているのは大四角錐と沈んだ大四角錐の関係の部分だけである。この図は第一ピラミッド及び第二ピラミッドの原像である二つの大四角錐が重なる状態を東から見た図として描き、更に沈んだ大四角錐が重なった状態を表している。この沈んだ大四角錐は二つの大四角錐との関係を南から見たものを東から見た図に重ねたものと彼らは解釈したのである。従って、沈んだ大四角錐は南から見て右側で最も手前にある対角線に沿って南東の方向に沈んでいると考えた。これが、三つのピラミッドを南西から見たとき第三ピラミッドが右側にずれている理由である。一方、下降通路及び地下の構造は東から見た図である。 11. 第三ピラミッドの設計. . 第三ピラミッドの設計ではFig. 7.1の大四角錐のデータ及び地平線の高さがそのまま用いられ、それらが導かれた根拠については理解されていない。第一ピラミッドの設計で用いられた三つの比率0.100856, 0.5, 0.2102は第二ピラミッドの設計では端数を失って伝えられ0.1, 0.5, 0.2に変わった。第三ピラミッドの設計では更にその意味も正しく理解されなくなる。太陽の南中位置が描く円の半径に対する地平線の高さの比が0.1であるが、この円の半径が考慮にないからこの比率は沈んだ大四角錐及びその地下部分を含む全体を縮小する比率であると考えた。第二ピラミッドではこの比率は0.2である。これが第三ピラミッドが他のほぼ二分の一の大きさになる理由である。更に、沈んだ大四角錐を先ず0.5に縮小した中四角錐を作図し、これとTを頂点とする二つの大四角錐を含む全体を0.2に縮小することにより、第三ピラミッドだけ0.1の縮小になるのであると上記三つの比率の意味を解釈したのである。. . Fig. 7.1の大四角錐の頂点Tは第二ピラミッドの頂点に対応し、線分P-Qは第一ピラミッドの頂上平坦部に対応すると考えた。後者は正しいが前者は正しくない。しかし、彼らはこの図は北東から見た両者の重なりを表していると考えた。点Pから−45°の直線を引くと沈んだ大四角錐の頂点Tにほぼ一致する点を通ることから、沈んだ大四角錐の頂点は沈む前は点Pにあったと考えた。この高さは表6.1の点Pの高さから656.83mであり、0.1倍の65.683mが第三ピラミッドの設計高さである。実測値は65.5mとされている。地下の深さは同表から147.35mの0.1倍の14.735mである。 . . 第三ピラミッドの角度の実測値は51°20'とされており、第二ピラミッドの角度の実測値よりほぼ2°小さい。従って、第三ピラミッドを建造した王はメンフィスの南約220km辺りに本拠地を持つ王である。この辺には北緯28°06'に先王朝時代の遺跡のあるアル・ミニヤ、約22km南の北緯27°54'に中王国時代の墳墓遺跡のあるバニ・ハッサンがあり、先王朝時代に繁栄した地域と考えられる。南中高度の測定地点に23°27'を加えると、ピラミッドの設計角度は前者の場合51°33'、後者の場合51°21'となる。設計底辺長は前者の場合104.31m、後者の場合105.05mとなる。後者の方が実測値105mに近いが、この場合、漆喰による石の貼付はないと考えなければならない。その場合、雨水が基底部まで浸み込み、その侵食により全崩壊することが考えられる。しかし、第一ピラミッドと同様の形態を保っていることから漆喰が使われていると考えられるので後者の値は適当でない。両者の中間地点北緯28°を南中高度の測定地点とし、設計角度は51°27'、設計底辺長は104.68mとする。彼等は少数を知らないから作図で求めたアナログ量の底辺長を整数値に読み取った105mに決定したことは想定されるが、以後の作図ではアナログ量をそのまま用いると考えられるから少数で表した値を設計値とする。
. . 沈んだ大四角錐はこの位置で先ず0.5に縮小されるが、その図は点線で示してある。この中四角錐はP2を頂点とする位置へ移動されるからである。その位置は、第二ピラミッドの原像であるTを頂点とする大四角錐の底辺の右端と沈んだ大四角錐の底辺の右端Dとの水平距離を0.5に分割する位置上に中四角錐の底辺の右端eがくる位置である。ここで全体を0.2に縮小すればTを頂点とする大四角錐は第二ピラミッドになり、P2を頂点とする中四角錐は第三ピラミッドになって、三つのピラミッドを南西から見た関係を表す。これらの関係は第三ピラミッドの位置を決める上面図Fig. 11.2で更に詳細に示す。 . . 地下への下降通路の設計は簡単であるので助手のような者に任かされたと思われ、指示が明確でなかったか、作図上の錯誤があったが、最終的なチェックも行われることなく現場に渡されたと思われる。Pを頂点とする大四角錐で、Pの真下の地下の点Oから26°の直線を引き、北斜面との交点をhとする。点Oと地表線との垂直距離の1/2の点fから水平線を引き、勾配26°の線分との交点をgとすれば、線分f-gは水平通路、線分g-hは下降通路の原型である。これ等は沈んだ大四角錐の底面の下に移されるとき、水平通路は点Oと底面との垂直距離の1/3の点に移される。大四角錐の1/3が地表下に沈んでいることとの混同が考えられる。従って、下降通路は北斜面に達する点Gまで延長され、水平通路の位置の深さは98.23m、長さは151.053m、下降通路の長さは361.044m、入口の高さは60.04mであり、これ等を0.1倍した9.8m, 15.1m, 36.1m, 6.0mがピラミッドでの設計値である。実測値は高津著ではそれぞれ10m, 15m, 30m, 10mとある。下降通路が6m程短いが、水平通路との交点に造られた前室といわれている部屋に変わっているからである。下降通路入口の高さが10mということはありえない。吉村著にある第三ピラミッドの断面図において下降通路入口の床と天井の中点迄の高さを測るとほぼ6mである。 . . 沈んだ大四角錐を点線で示すように0.5倍の中四角錐に縮小したとき、地下構造も0.5倍に縮小した。その水平通路の位置の中四角錐底面からの深さは沈んだ大四角錐の水平通路f-gの深さの1/2であるが、ここにも錯誤があり、点O迄の深さの1/2に設定した。従って、その位置の深さは73.68m、長さは75.53m、下降通路の長さは180.52mとなる。ここで中四角錐はP2を頂点とする位置へ移されるが、その地下構造はピラミッドの位置決めに関係ないので残される。ピラミッドの位置が決まり、中四角錐は0.2倍に縮小されるが、その図面は描かれなかった。それは沈んだ大四角錐を0.1倍に縮小することに同じであり、沈んだ大四角錐を1cmの単位で測ったとしたら、その定規の10cmを1cmと読めばよいからである。ところが、沈んだ大四角錐の図面の地下構造には中四角錐の地下構造が残っていたので、それも0.1倍に縮小して造られてしまった。これが第三ピラミッドに第二の通路が存在する理由であり、その水平通路の位置の深さは7.37m、水平通路の長さは7.55m、下降通路と平行に18.05m上昇して地表に達した辺りで行き止まりとなる。 . . 第三ピラミッドの位置を決めるには上面図で行うのが分かりやすいのでFig. 11.1を上から見た図をFig. 11.2に示す。第二ピラミッドの原像であるTを頂点とする大四角錐の底面は点線で示してある。その外側の実線で示した正四角形は第一ピラミッドの原像である大四角錐の底面であり、その頂上の平坦部はTを中心とする小さな正四角形で表している。これらはFig. 11.1では東Eから見た図が描かれている。頂上平坦部の西側の辺の中点に第三ピラミッドの原像である大四角錐の頂点Pがあり、それを中心とする正四角形が底面である。この図及び沈んだ大四角錐はFig. 7.1では南Sから見た図が描かれていて、Pを頂点とする大四角錐の東側の斜面はTを頂点とする大四角錐の内部に隠れているので描かれていないと彼等は考えた。分かり易くするためFig. 11.1にはこれを描いた。 . . Fig. 11.1のPを通る垂直線とP1を通る垂直線の間隔の平行線の一方がFig. 11.2のPを頂点とする大四角錐の頂点を通り、もう一方が南東の稜線と交わるとき、その交点P1が沈んだ大四角錐の頂点である。その底面の南側の辺B-DがFig. 11.1の沈んだ大四角錐の底面である。点線で示した大四角錐の底面の南東の角から線分P1-Dへ垂線を引いた交点をcとする。点Dと点cの中点eにP1を頂点とする大四角錐を0.5倍に縮小した中四角錐の南東の角を配置したものがP2を頂点とする中四角錐である。
. . Fig. 11.2に示すように、第三ピラミッドの中心は第二ピラミッドの中心から南西に対して南側に13°4'の方向にあり、南西に444.21m南東に103.12mの位置で中心間の距離は456.02mである。高津著ではこの中心間の距離は第一ピラミッドと第二ピラミッドの中心間距離と同じ490mと述べているがそれは考えられない。Fig. 11.3に地図で測った結果を示す。第二ピラミッドの中心から南西に434.8m南東に100.4mの位置で中心間の距離は446.2mであり、第三ピラミッドの中心は南西に対して南側に13°の方向になる。中心間距離は設計値より短いがその違いは3%以内であり、設計値と実測値は良く一致すると言える。この地図には第一ピラミッドの寸法を正しく示す定規で第二ピラミッドを測ると10m程小さい値を示す歪みがあるが、第三ピラミッドは105mのほぼ正しい値を示す。この歪みは写真製版の際にレンズの中心が第二ピラミッドの辺りにあったことによる歪みとも考えられるが、中心間距離490mが446.2mになるような大きな歪みはないと思われる。 . . 第三ピラミッドの建造も最終段階になり、上部2/3はツーラで採れる白い石灰岩の化粧石で被い終わり、下部1/3をアスワンで採れる赤い花崗岩の化粧石で被う作業も完了間近となった頃、アスワン近辺に強大な勢力が現れ、花崗岩採石の妨害に出た。王はアル・ミニヤから450kmも南で起きた事変に対応できず、アスワンから撤退することを余儀なくされた。そのため一部の化粧石はツーラの白い石灰岩を使用することになる。しかし、強大な勢力は忽ちにナイルを攻め下り、アル・ミニヤに迫ったためツーラでの採石に人手を割く余裕もなくなり、ギザではやむなく日干し煉瓦で完成を急ぐことになった。これが石灰岩や日干し煉瓦が下部の一部に使われている理由である。 . . やがてアル・ミニヤは落ち、尚も攻め下った強大な勢力は遂にメンフィス迄も攻め落としてしまう。しかし、ここから先は広大なデルタ地帯に群雄割拠する地域であり容易に攻め落とすことが出来なかった。そのためエジプトを上エジプトと下エジプトの二つに分断して対立が続くこととなる。 . . ナイル下流のデルタ地帯に発達したエジプト文明は周囲が砂漠であるためナイル上流へとその範囲を拡大するが、その新天地に強大な力を持つ者が現れ、やがて、下流の中心部に居る王を倒して新しい王となる。この様にしてエジプト文明はその中心部をナイル上流へと移していくが、アスワン辺りに現れた強大な勢力を率いる者に対してはメンフィス迄も落とされてもエジプトの王とは認めなかった。それは彼及びその軍団が、赤い土の国とエジプト人が呼ぶ砂漠の民族だからである。従って、上エジプトの一般住民は下エジプト人と同じ民族であるが、王及び軍団の上層部は砂漠の民族である。 12. 赤ピラミッドの設計. .メンフィス迄攻め落とした赤い土の国の軍団は強力な抵抗にあい、それ以上の進軍を阻まれることとなるが、一進一退の戦いの中でギザのピラミッドを遠方からではあるが目にすることになる。そして、第三ピラミッドの上部が白く、下部がアスワンの赤い花崗岩で赤く彩られているのはエジプトが赤い土の国を制圧し、上位にあることを誇示していると考えた。そこで、上エジプトと下エジプトに分断した状態が定着すると、上エジプト王はメンフィスのほぼ4km南のダハシュールに赤いピラミッドを建造し、我はエジプトを征服した、我こそエジプトの王なりと宣言した。しかし、その後もエジプトを二分した状態と一進一退の攻防は続くのである。. . 彼は第三ピラミッドの設計図Fig. 11.1の一部と設計データを手に入れたが、ピラミッドが太古の大地の模型であることは知らない。大四角錐の斜面は太陽が南回帰線にある時の南中高度に垂直であるが、その意味は太陽光線を矢にたとえ、目に見えない巨大な盾がエジプトの四方を囲い、太陽光線がエジプトを赤い土に変えるのを防いでいることを表していると考えた。下エジプトはエジプトを守る立場にあり、その象徴として巨大な盾を縮小したピラミッドを建造したにちがいない。それなら、我々はエジプトを攻める立場にあるのだから、その象徴として矢に対応する太陽光線の角度のピラミッドを建造しようと考えた。これらの真正ピラミッドは太陽光線を表すという考えが後の時代に起こるのはこれが理由である。 . . 赤ピラミッドの斜面の角度の実測値は43°22'とされている。北緯に23°27'を加えた角度の斜面が南中の太陽光線に垂直であるから、北緯をθで表せば、 . . 第三ピラミッドの設計図Fig. 11.1に描かれた三つの大四角錐の斜面は同じ角度であるように見えた。第一ピラミッドの斜面の設計角度が52°であることからこれらの設計角度は皆52°であると考えた。しかし、第三ピラミッド設計における太陽の南中高度に垂直な角度は51°27'とあることからピラミッドの設計角度はこれに33'を加えたものであると考えた。盾の角度を計測値より33'大きくしたのであるから矢の角度は33'小さくするべきであると考えたのである。角度の実測値とこの設計値から漆喰の使用による圧縮率を求めると0.99651となる。 . . Fig. 11.1の大四角錐の頂点Tの設計高さは表6.1から701.01mであり、52°の設計角度に対する底辺長は同表から1095.37mである。これを0.2102に縮小したから第一ピラミッドの設計高さは147.35m、底辺の設計長は230.25mであるが、第二ピラミッドの設計以降この比率は端数を失い0.2に変っていたため、彼等は第一ピラミッドの設計高さは140.2m、底辺長は219.074mであると考えた。従って、赤ピラミッドの底辺長を219mに決定した。実測値は220mとされているが、219mとしている観光案内書もある。設計角度は43°28'であるから設計高さは103.79mであり、実測値は104mとされている。尚、直角三角形を用いて底辺長の半分を求め、整数に丸めてから二倍にすれば底辺長は220m、設計高さは104.26mとなるが、ここでは前者を設計値とする。
. . 日本の考古学書では上エジプトの王冠は白、下エジプトの王冠は赤であり、これらの色がそれぞれのエジプトを象徴する色であるとしている。その理由は統一王朝の王冠の上部が白で下部が赤であり、上エジプトが下エジプトを征服して統一したからと考えているようである。しかし、武力を持って征服した場合、征服された国の象徴を征服した側の国の象徴に採り入れることはない。これは逆であり、ピラミッドの色が正しい色である。翻訳書では正しく記述しているものもある。そもそも、エジプトを黒い土の国、砂漠を赤い土の国と呼ぶエジプト人が赤を国を象徴する色とすることはありえない。統一王朝の王冠の上部が白く下部が赤いのには別に理由があり、それは次節に述べる。 13. 屈折ピラミッドの設計. .古代エジプト人はエジプトを黒い土の国、砂漠を赤い土の国と呼んでいた。「エジプトはナイルの賜物(たまもの)」「ナイルの水を飲む者は皆同じエジプト人」という言葉もある。考古学ではこれらの言葉の本当の意味を理解していないようである。これらの言葉が発せられた状況を考えなければならない。黒い土の国と赤い土の国に区別しなければならなかった理由は何かである。それは、そこに住む民族を区別する必要があったからである。賜物(たまもの)という言葉には贈る者と贈られる者に身分の上下関係が見られる。贈る者が発した言葉なら恩着せ的な意味を持ち、贈られた者が発した言葉なら感謝の意味を持つ。神に対する感謝的な意味に解釈されているようであるが、それを言葉で表さねばならなかった事情は何か。最後の言葉はエジプト人の定義である。異民族が居たから定義が必要だったのである。これらの言葉はエジプトの分断と対立そして統一に関係がある。. . アスワン辺りに現れた砂漠の民族にメンフィスまで攻め落とされた下エジプトは黒い土の国は赤い土の国の民族の住む所ではないから出ていけといった。これに対して上エジプトはいわゆる水利権を主張し、ナイル上流は砂漠を流れているから赤い土の国のものであり、黒い土はナイルの贈り物、即ち、エジプトは赤い土の国の贈り物の上に存続しているのであると言い返した。かくして、上エジプトと下エジプトの対立が続くのであるが、長い年月の間に王族はともかくその他の者は同化も進み、下エジプトが「ナイルの水を飲む者は皆同じエジプト人」と認めると譲歩したことにより和平が成立した。そして、同じエジプト人なら国を二つに分けているのはおかしいから一つにする話が纏まった。その際、基本的な要件として上エジプトと下エジプトは対等であるという要件が約束された。国を一つにすれば当然王も一人にするべきである。しかし、何方かの王が退位するのは対等ということに反する。従って、王を一人にするのは次の世代からとし、当面は二人の王で一つのエジプトを統治することになった。王朝時代はまだ始まらないのである。王朝とは一つの王家の王が引続き統治することである。 . . この対等という要件は次の世代から始まる王朝時代に引き継がれていく最重要な要件であり、この故に史実に見られるような王朝の推移があるのである。第四王朝時代になると、強い権力の故にこれを無視した王位継承が行われた。そのため、第四王朝を境として王朝は衰退の道を辿り、再びエジプトは分裂の時代を向かえることになる。 . . 二人の王はエジプトが一つになったことを顕示するためにピラミッドを建造しようと考えた。そのピラミッドは上エジプトのピラミッドと下エジプトのピラミッドを合体した一つのピラミッドとすることにした。地理的な関係から上エジプトのピラミッドを下エジプトのピラミッドの上に乗せるのが自然である。しかし、これは上エジプトが下エジプトより上位にあるという見方も出来る。それは対等という要件に反する。そこで王冠の色を第三ピラミッドと同じに上部を下エジプトの色である白とし、下部を上エジプトの色である赤にして、屈折ピラミッドと王冠の対により対等合併による統一の象徴とした。これが王冠の色が地理的な上下関係と逆になった理由である。 . . 屈折ピラミッドには二つの下降通路がある。一つは他のピラミッドと同様に北斜面に入口があり、もう一つは西斜面に入口があり、両者はピラミッド頂点の真下辺りでつながっている。この二つの入口は実際はアスワン近辺の地下水の出口を意味している。北斜面に流れ出た地下水はナイルとなり、西斜面に流れ出た地下水はそのまま地下を流れてナブタのオアシスに流れ出ることを意味している。即ち、ナブタのオアシスに住む民族もナイルの水を飲むものであることを表している。これが後の時代にピラミッドはアスワン辺りの山岳地帯を表すという考えの生ずる理由である。 . . 屈折ピラミッドの上部の斜面の角度は当然に赤ピラミッドと同じである。下部の斜面の角度の実測値は54°28'とされている。これから23°27'を引けば下エジプト王の本拠地はほぼ北緯31°1'となる。この場合の候補地としてはカイロを頂点とするデルタ地帯の北緯30°58'の線上の東の端にタニス、中央にメンデス、西の端にサイスがある。これらはもっと後期の王朝の遺跡として知られているが、下エジプトのノモスの首都であり、先王朝時代から栄えた地であると考えられる。屈折ピラミッドを建造した下エジプト王の出身地はここであるという競争によりこれらの地が栄えたことが考えられる。この場合屈折ピラミッド下部斜面の角度は実測値より3'小さくなるが、実測値はあまり信頼性がよくないのである。1959年発行の英語版ブリタニカには高さは105mであり、底面の一辺の長さは189.45mとあり、この点は日本の考古学書の記述と一致するが、角度はかなり異なり、上部は43°5'、下部は55°1'とある。この20'から30'に及ぶ違いは測定精度というよりは測定位置による違い、即ち、ピラミッド建造の精度ではないかと考える。 . . 候補地はもう一つある。下エジプトのピラミッドの角度はアル・ミニヤ近辺の日南中高度に直角な角度に33'を加えたものと考えて赤ピラミッドの角度はナブタの日南中高度から33'を減じた。屈折ピラミッドの下部についても33'の加算があると考えると、下エジプト王の本拠地は北緯31°1'から33'を減じた北緯30°28'となる。この辺には下エジプトのノモスの首都であるブバスティス北緯30°34'がある。ここにおけるピラミッドの角度設計値は54°34'となる。王の本拠地が現在首都の位置として知られている場所と一致する保証はないので本設計では前者の設計値54°25'との平均値54°30'を屈折ピラミッドの下部の設計角度とする。 . . 屈折ピラミッドの設計図をFig. 13.1に示す。寸法は大四角錐を建造すべきピラミッドの大きさに縮小した値で示してある。前節で示した赤ピラミッドの設計図Fig. 12.1がこの設計の基本となっている。下エジプトのピラミッドの頂点Tの高さは701.01mを0.2に縮小した140.2mである。これを第三ピラミッドの頂点の高さ65.683mに対する赤色部分の高さ20.893mの割合で分割する線FGを引くと、その高さは44.6mとなる。この値はもっと簡単に整数値の比21/66等で計算しても殆ど変わらない。赤ピラミッドAB'C'のこの線より上の部分ABCが屈折ピラミッドの上エジプトを表す部分である。その下に下エジプトを表す部分が構成される。上部ピラミッドの底面の両端B及びCから54°30'の斜面を描き、地表面における底面の両端をD及びEで表すと、台形DBCEで表される部分が下エジプトを表すピラミッドである。上エジプトを表す部分の底面の一辺はBC=125m、下エジプトを表す部分の底面の一辺はDE=188.6mであり、実測値とほぼ同じである。尚、斜面の角度が54°25'ならDE=188.8m、54°34'ならDE=188.4mである。
. . 逆にBCより上を下エジプトのピラミッド、下を上エジプトの赤ピラミッドで構成したものが統一エジプトの王冠の額から上の部分である。但し、Fig. 13.2に示すように、赤ピラミッドの部分は上下を逆にして帽子のつばを折り返した形にした。更に、横幅を縮小し、下エジプトを表す部分はハゲタカの後ろ向きの姿を型どり、上エジプトを表す部分は後部をコブラが鎌首を持ち上げた形に模したのが吉村作治著より写したFig. 13.3の中央に示した統一エジプトの王冠である。つばの部分はコブラがとぐろを巻いている状態を表している。この王冠を使用するのは次の世代からであり、当面はこれを二つに分け、上エジプト王は同図左の赤冠を使用し、下エジプト王は同図右の白冠を使用することとした。この時、両王冠の高さを同じにするために赤冠の後部を立ち上げたのであり、横から見たとき赤冠の前頂部が欠けて見えるのを補うためにコブラの尻尾をつる状に付けた。
. . 屈折ピラミッドの高さの設計値は赤ピラミッドと同じ104mであるが、下エジプトの部分の高さ44.6mと上エジプトの部分の高さ59.4mをともに整数に切り上げれば全体の高さは105mとなる。西側の下降通路入口の地表からの高さは29.5mで赤ピラミッドと同じであり、下降通路は26°の勾配で下り、地表面に達して水平通路となる。水平通路の長さはLO=12.85m、下降通路の長さは67.2mで実測値は67.67mとされている。図のピラミッド全体は東から見た図であり、この下降通路は南から見た図であるが、第10節に述べた古代エジプト人の製図画法に従い90°回転して東から見た図に重ねて描いている。北斜面にある下降通路入口は第二ピラミッドの下降通路入口の高さ設計値11.07mをTを頂点とするピラミッドTB'C'の入口と見做し、Hを頂点とする下エジプトのピラミッドHDEの入口として頂点の高さの比で換算したものであり、10.44mとなる。実測値は10mとされている。下降通路は26°の勾配で下り、中心よりの水平通路の長さが西側の水平通路の長さLOと同じにRO=12.85mとなる地点で終わる。水平通路の地表からの深さは25.65m、実測値は25mとされる。下降通路の長さは82.326mであり、実測値は78.15mとされてるが、設計値は部屋として変えられている部分を含んだ値である。 . . 屈折ピラミッドの建造を持って所謂ピラミッド建造時代は終わる。その理由は、次の世代から始まる王朝時代は上下エジプトを統一した二人の王の決めた規則に基づいて王位の継承が行われていく時代であり、実力で王位を獲得した先王朝時代とは全く異なるからである。次章に述べるように王朝時代はオベリスク建造の時代である。崩れピラミッドや階段ピラミッドと呼ばれるものはその階段壁の角度を見れば明らかなようにピラミッドではなく階段オベリスクというべきものである。実際に、古代エジプト人は階段ピラミッドはメルではなくイアルと呼んでいた。これらに関して著者の考えは考古学の主張するところとは全く異なるが、考古学の主張は悪戯書きや王の彫像が落ちていたとか、それらに基づいて昔の著名な考古学者が述べたこと等を根拠として建造者を決めていることによるものであり、それらが一般的に建造者を示すという実証、即ち、建造者でないなら王の名前を示す悪戯書きや王の彫像が落ちていることはないという実証がなく、全く根拠がないというべきである。考古学の主張の欠陥はピラミッドが何であるかを全く理解していないことであり、更には、その基になる古代エジプト人の自然科学がどのようなものであったかを正しく理解していないことである。
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