第二章 ピラミッドの建造

1. 日本にあるピラミッド伝説

. . 古代エジプト人は各地にその文明をひろめ、ピラミッドを建造してきたが、日本にもその文明とピラミッドはもたらされている。各地の住居建造法によりピラミッドの建造材料は変わり、南米では干乾し煉瓦が使われ、マヤでは漆喰で囲いを作り中に土を詰める方法で建造された。日本では住居が木造であるのでピラミッドも木造となり、内部に空間が作られた三段と五段のピラミッドが存在する。三段ピラミッドは三重の塔と呼ばれ、五段ピラミッドは五重の塔と呼ばれている。彼等はエジプトにおけるピラミッドの建造順序とその特徴を極めて明確に述べた伝説ももたらしている。その建造順序は序文で述べた順序と第一ピラミッドと第二ピラミッドの順序が異なる他は完全に一致する。その伝説は日本最古の書物古事記の書き出しに記されている。但し、ピラミッドは柱と総称され、個々のピラミッドは神と書き換えられているが、それらの神の数や特徴に関する記述はピラミッドと完全に一致する。
. . 最近、テレビで伝言ゲームというものを良く見る。10人程の人を横に順に並べ、相隣る二人の間で左の人から右の人へだけ情報が伝わるようにする。一番左の人に簡単な物語を聞かせ、それを次々と右の人へ伝えていく。問い返しは出来ないから、聞き逃したり忘れたりした部分は省いたり、変更したり、元の物語にないことを付け加えたりするから物語は変化していき、最後の人の聞いた物語は元の物語を推測できない程変わることもある。又、物語の粗筋はほぼ合っているが、人物や物の名称や場所が変わることも起こる。神話、伝説はこれと同様に、古代においては情報の伝達が一方的であり、且つ、正確に伝わらないから生まれる。又、権力者に都合のよいように変えられることもある。前章で述べた太陽とシリウスの関係の観察記録と、七夕の物語やキリストの生涯の神話の関係はこの伝言ゲームと同じである。ピラミッドの建造順序やその特徴も伝言ゲームと同様に伝えられ、神話として日本最古の書物である古事記に記されている。島崎晋著「らくらく読める古事記(2003)」より抜粋した記述とピラミッドの関係を以下に述べる。

「天と地がはじめて二つに分かれたとき、高天原に最初に現れたのは天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)をはじめ三柱の神である。みな独神(ひとりがみ)で、いつの間にか姿を隠してしまった。」
. . 原文は「ギザの大地に最初に作られたのは第二を始めとする第一、第三ピラミッドの三本の柱である」ということであろう。当時、ピラミッドを柱と表現するのは極めて当を得ている。英語に、make+名詞+形容詞、という構文があるが、make pillar mid (柱を中央にする)と言う筆記文のスペースが失われ、make pillarmid (ピラミッドを造る)となっても構文としては誤りではない。これからpyramidという名称が生まれたとも考えられる。ピラミスと言う食べ物の形状が似ているからという説があるが、むしろ綴字がそれにより変えられたのであろう。「みな独神」とは、階段ピラミッドがナイルの瀑布と対をなすのに対し、そのようなモデルのないピラミッドであるということである。「姿を隠した」とは石を積んで出来た階段に斜めに削った化粧石をはめて階段を隠したと言うことである。
「次に地上の国がまだ若くて固まっていないときに二柱の神が現れたが、これもまた独神でいつの間にか姿を隠してしまった。」
. . 次に二本の柱、赤ピラミッドと屈折ピラミッドが造られた。これらも対になるモデルの存在しないピラミッドであり、階段を化粧石で隠している。「地上の国がまだ若くて固まっていないとき」とはナイルの氾濫を意味しているのであろう。
「以上の五柱の神は天つ神の中でも特別の神々である。」
. . 以上の五本の柱は正四角錐の形状をした真正ピラミッドと呼ばれる特別の柱である。
「次に現れたのは国之常立神(くにのとこたちのかみ)と豊雲野神(とよくもののかみ)。これもまた独神で、おなじくいつの間にか姿を隠してしまった。」
. . 次に造られたのはヘリオポリスの太陽神殿とアブ・グラブの太陽神殿のオベリスクである。これらも対になるモデルのない柱であり、階段は隠されている。
「次には男女五組の神々があいついで現れたが、(他本では、次々と隠れてしまい) 五番目に 現れたのが伊邪那岐神(いざなきのかみ)と伊邪那美神(いざなみのかみ)である。国之常立神から伊邪那美神までをあわせて神世七代という。」
. . 次にはナイルの第二、第三、・・・キャタラクト(瀑布)と対になる二段、三段、・・・の階段ピラミッドが次々と前の階段ピラミッドを隠してその上に造られ、五番目に造られたのが 第六キャタラクトと対になる六段の階段ピラミッドである。これらの階段壁は太陽神殿のオベリスクの下部と同じ角度であり、階段オベリスクというべき物である。従って、オベリスクは七つある。
. . 日本神話はこの後太陽とシリウスの観測記録へと移っていく。前章第十五節に述べたイエス・キリストの神話にもこのピラミッドのことは含まれている。十二使徒は神がイエスに使わした弟子達であるとされている。スフィンクスは太陽を支配する神が宿るとされた岩山であり、神である。その後ろにある第一、第二、第三ピラミッド、そして、赤ピラミッド、屈折ピラミッド、二つの太陽神殿のオベリスク、二段から六段までの階段ピラミッドが十二使徒である。ピラミッド建造は六段ピラミッドで終わったということが、十二番目に列挙される使徒、イスカリオテのユダの反逆によるイエスの死となり、前章で述べた太陽とシリウスの観測記録へと移っていく。
. . 古代エジプトでは王の娘と結婚した者が王位を継いだ。王の息子が王位を継ぐためには姉又は妹と結婚する必要があった。このようにして王と息子の関係で王位が継承されている期間を一つの王朝、例えば、第四王朝のように呼んでいる。最近の古事記に関する書物には、近親相姦との関係で記述されていないが、伊邪那岐神と伊邪那美神は双子として生まれたとの記述が昔はあった。これは太陽とシリウスが同時に東の空に昇ったと言うことである。この神話ではこのときを一月一日としている。そして、続く数年の一月一日の太陽とシリウスの関係の記述に移る。
「二神の国生み・・・・伊邪那岐神は「女が先に言葉を発するのはよくない」と告げた。それから二柱の神は性交をして、水蛭子(ひるこ)という子を生んだ。この子は葦の船に入れ、ながして捨ててしまった。次に淡島を生んだが、この子もまた子の数には入れなかった。」
. . 太陽とシリウスが同時に昇った年の一年を365日とすると、次の年の一月一日はシリウスを見ることが出来ない。その次の年も同じである。これが水蛭子と淡島を生んだとなる。「女が先に言葉を発するのはよくない」とは太陽とシリウスが同時に昇った年の一年を365日とするのはよくない、何故ならば、と言うことである。
「二柱の神は天つ神に相談してやりなおし、伊邪那岐神が先に言葉を発して性交し、生まれたのが淡路島である。二柱の神はそれからまた七つの島を生んだ。」
. . 太陽とシリウスが同時に昇った年の一年を366日として歴計算をやり直せば、次の年の一月一日にシリウスが先に昇り、間もなく太陽が昇る。これが正常な一月一日であるというのが、正常な子、淡路島を生むとなる。二年目以降は一年を365日とすれば、三年目、四年目の一月一日にシリウスが先に昇り間もなく太陽が昇る。そして、五年目の一月一日には太陽とシリウスが同時に昇る。従って、この年の一年を又366日とすれば、六年目、七年目、八年目の一月一日にシリウスが先に昇り間もなく太陽が昇る。そして、九年目の一月一日には太陽とシリウスが同時に昇るから後はこの繰り返しであると言うのが「二柱の神はそれからまた七つの島を生んだ」となる。三年目から九年目までの一月一日は七日あるからである。
. . ここから神話は太陽とシリウスの一年間の関係の記述に移る。但し、太陽とシリウスが同時に昇るのは一年の始まりではなく、それより半年前の太陽が西に沈むと同時にシリウスが東に昇る日を一年の初日としている。この後、太陽が沈んだ時シリウスは日毎に高い位置に現れ西に沈む。これが数々の神を生む記述となる。そして130日目頃になると太陽が西に沈むとシリウスは西の空に現れて間もなく沈む。この時西の空は夕焼けで真っ赤に染まったというのが火の神を生んだとなり、神話はここから黄泉の国巡りとなる。
「黄泉国めぐり・・・・伊邪那美神は火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)という火の神を生んだときの火傷がもとで世を去った。伊邪那岐神は伊邪那美神にあいたくてしかたがなくなり、黄泉国へ追いかけていった。伊邪那美神にあって一緒に帰ろうと促すと、黄泉国の神に相談する間、自分の姿を見てはならないといわれたが覗き見てしまい、その恐ろしい姿に驚いて逃げ出した。伊邪那美神は怒って追いかけてきたが、伊邪那岐神は巨大な岩を黄泉比良坂(よもつひらさか)に引き据え、その岩を間にはさんで伊邪那美神と向かい合った。」
. . 135日目に太陽は西北西に、シリウスは西南西に同時に沈むが、その後、46日間はシリウスを見ることが出来ない。これが、火の神を生んだときの火傷による伊邪那美神の死となる。第一章15節の七夕伝説で述べたように、古代エジプト人はこの46日間の中間日に太陽とシリウスは出逢い、23日後の七月一日に天の川北岸に戻ったと推定した。このとき両者は同時に東の空に昇り、両者の間には天の川が真直に立ち昇っている。これが、伊邪那岐神が伊邪那美神を黄泉の国へ追いかけていき、恐ろしい姿を見て逃げ帰り、追いかけてきた伊邪那美神と巨大な岩を間に向かい合ったとなる。
「こうしてやっとの思いで葦原中国に帰り着いた伊邪那岐神は禊をし、左目を洗ったときに天照大御神、右の目を洗ったときに月読命、鼻を洗ったときに建速須佐之男命が生まれた。天照大御神には高天原の、月読命には夜の国の、須佐之男命には海原の統治を委任した。」
. . 太陽とシリウスが同時に東の空に昇った状態を、それを観測する人間と対面する顔に見立てると、太陽は右目、シリウスは左目、天の川は鼻である。シリウスは日毎にほぼ太陽二つ分づつ先に昇り太陽が昇ると消え、137日後に、西の水面に沈むと太陽が昇る。これが「左目を洗ったときに天照大御神が生まれる」となる。この状態は47日間続き、今度は、太陽が西の水面に沈むとシリウスが昇る。この後135日間はシレウスの現れる点の高度で、前記の137日間は消える点の高度で何月かを読み取ることが出来る。これが「右目を洗ったときに月読命が生まれる」となる。月(ムーン)はひと月の何日目かを読むことは出来るが、今何月かを読むことは出来ない。135日後、太陽とシリウスは同時に西の水面に沈み、その後天の川が沈むが、翌朝、太陽と天の川は東に昇るのにシリウスは現れない。これが「鼻を洗ったときに須佐之男命が生まれる」となる。太陽は昼間だけ見え、シリウスは夜だけ見えるから、「天照大御神には高天原の、月読命には夜の国の統治を委任した」となり、西の水面に沈んだまま46日間現れないシリウス、即ち、 須佐之男命には「海原の統治を委任した 」となる。46日後、シリウスは太陽より先に東の空に昇る。これが、須佐之男命は委任された海原の統治をせず、高天原に昇ったとなり、神話はこの後数々の尾鰭を付けていく。
. . この神話の元になる観測記録が著されたのは、一年中、太陽とシリウスを良好に観測できる場所でなければならず、それはエジプトである。そして、太陽とシリウスが水面に沈む所はファイユームにある古代遺跡である。ファイユームの西には巨大な湖カルーン湖がある。現在のカルーン湖は古代より小さくなっているといわれるから太陽とシリウスが沈むかどうか不明であるが、古代においては両者とも湖に沈んだであろう。
. . 以上に述べたように、古事記の日本神話はピラミッドとその建造順序、及び、太陽とシリウスの関係の観測記録と極めて良く一致する。この神話に見られるピラミッドの建造順序は考古学の主張とは全く異なる。古代エジプト人の自然科学に関する考え方から見ても考古学の主張は正しくなく、日本神話の第一と第二ピラミッドの順序を入れ替えたものが妥当である。

2. 第一ピラミッドは砂漠灌漑の巨大装置

. .古代エジプト人はナイルの増水期になると氾濫が起き、水が引くと農作物の栽培に適した肥沃な土地が残ることを見て、ナイルの水をギザの台地に流して砂漠を灌漑しようと考えた。しかし、ナイルの水面より高い所にナイルの水を流すことは出来ない。彼等は、ナイルの水源はアスワンであり、ここで湧き出た水が湖を形成し、溢れた水が流れ出ていると考えていた。アスワンの南側にも同様に流れ出ていると考えていたともいわれる。彼等はギザの台地に地下水脈のあることを発見し、ここに巨大な大地の模型を造れば溢れ出た水が砂漠を潤し、肥沃な土地に変えるだろうと考えたのである。現代人は、地下水は自然には10m以上湧水しないことを知っているが、彼等は知らなかったのである。
. . 古代エジプト人は、太陽が夏にはエジプト上空を回り、少しづつ南に移動して冬には遥か南方を回るのは大地に隈無く等しい恵みを与えるためであると考えた。やがて、太陽は大地と並行に南方へ移動しているのではなく、太陽の南中位置がエジプトを中心とした円を描くように移動していることを知る。その理由もやはり大地に隈無く等しい恵みを与えるためであると考えた。太陽の南中高度はエジプトでは夏には90°近くになるのだから、冬の南中高度に直角な斜面が遥か南方にあり、そこではエジプトの冬には夏になり、太陽はその斜面に対して90°近くになるだろうと考えた。そして、その斜面は夏が二度来る場所でエジプトの平面と交わっていると考えたのである。太陽は東西方向にも回転しているから、東にも西にもエジプトの平面に対して同じ角度の斜面がありエジプトの平面と交わっているであろう、そして対称性を考えれば北にも同様の斜面があるだろうと考えた。従って、大地は正四角錐の四つの斜面と、頂上部を切り取った平面の五つの面からなり、四つの斜面は海中に沈み、エジプトのある平面のみが海上に出ていると考えた。
. . 砂漠を掘ると岩盤に突き当たり、岩盤を砕くと地下水が現れる。彼等は、大地の原型は正四角錐の頂上を切り取った形状をしていたが、今は頂上部が崩れて岩盤が露出しているのがアスワンであると考えた。これが、後にピラミッドはアスワン地方の山岳部を表す模型と考えるようになる理由でもある。第一ピラミッドは頂上部が崩れる前の大地の原型の模型であり、重量軽減の構造といわれる石組は砂漠に湧き出る泉、即ち、自然の井戸を表し、湧き出た水は巨大な湖カルーン湖を形成する。ここから南北の両斜面に突き抜ける通気口といわれる物は地下水の流れ出る通路である。ピラミッドを構成する巨大な石は立方体の側面を精密に平にしたうえ、漆喰で貼り合わせている。これは内部に溜った水が外に漏れるのを防ぐためである。地下水の湧き出る所では砂も湧き出てくる。又、砂は水を含むことが出来る。これは地下水槽には砂が詰まっているからだと考えた彼等は、水層及び上部への通路の壁を作った後、砂と水を入れて突き硬め、その上に又石を並べて漆喰で貼り合わせて天井を作った。このとき、上昇通路の入口は水は通すが砂は漏れないように巨大な花崗岩で内部より塞いだ。石積みを終えた後、石灰岩を斜めに削り磨いた化粧石を上部より下方に向かってはめて行った。下行通路の入口を残して化粧石をはめ終わった後、下行通路の地下部分を掘り、地下水を出してから入口を塞いで完全に密閉したのである。
. . 最近の調査の結果、第一ピラミッドの西側内部に部屋らしきものがあると言われている。フランスの調査隊がドリルで穴を開けたところ砂が流れ出たというし、古代エジプト人は大地の原型の模型を造ったのであるから西側には大量の砂が詰められていることは考えられる。彼等は、ナイルが雨期に大量の土砂を運んで来ることから、ピラミッドの上部が崩れて地下の井戸が現れたのがアスワンであると考えた。同様に、エジプトの西側の広大な砂漠は地下にあった大量の砂が地表に現れたものであると考えた。従って、大地が崩れる前の模型である第一ピラミッドの内部の西側には大量の砂が詰まっているであろうことは当然に考えられる。
. . このようにして第一ピラミッドは完成したが水が流れ出ることはなかった。地下通路の入口でも地上18メートル程の位置にあり、ここ迄すら地下水は昇れないのである。計画は完全に失敗であることを知った彼等は考えを変え、やがてナイル沿岸の灌漑へと向かう。それまで氾濫に任せていたナイル西岸を堤防により適当な大きさに区分し、各区画に水の入口と出口を作り、ナイルの増水期に水を採り入れて肥沃な土砂を十分に沈澱させた後放流することにより効率良く肥沃な農作地を得るベースン灌漑という方法を考え出した。西岸でベースン灌漑が始まったのは紀元前4000年頃であり、東岸ではずっと遅れて紀元前2000年頃と言われる。従って、第一ピラミッドが建造されたのは紀元前4000年より前と考えられ、 1959年発行の英語版ブリタニカにB.C. 4700頃とあるのが正しく、その後の変更理由に誤りがあると考えられる。
. . ピラミッドによる砂漠の灌漑計画は失敗であったが、化粧石で平に仕上げられた四つの斜面を持ち、140m近い高さの巨大四角錐が砂漠の中に聳え立ち、太陽光に燦々と輝く姿は現在見るピラミッドより遥かに素晴らしい光景であったと思われる。これを造る石材は直線距離で700km近くも南方のアスワンからも運ばれたというから、ナイル沿岸全体を制する巨大な権力を持たなければ出来ない。そのような巨大な権力を得た王は自分もこの素晴らしいものを建造しようと考えたに違いない。しかし、第一ピラミッドの上部の内部構造は密閉されている上に、計画が失敗であったので記録も確かでなくて分からないから、以後のピラミッドには造られていない。第一ピラミッドで最後に完成された下行通路と玄室といわれる地下室だけが以後のピラミッドにも造られた。以後のピラミッドは権力を誇示するために造られた物であり、権力の象徴である。権力を実力を持って勝ち取ったからこそ誇示することも必要なのであり、血縁を持って権力を継承している王朝時代にはその必要はない。又、親子で王位を継承している時代なら、王のピラミッド建造を見てもいるだろうし、設計思想やデータは殆ど正確に伝達されると考えられるが、以後のピラミッドはそれらが正確に伝えられていないと思われる変化をしていく。これは権力を実力を持って勝ち取っている時代なら生ずる。

3. 第一ピラミッドを造ったのはクフ王ではない

. .考古学によれば、クフ王の時代には、第三王朝のジョセル王の建造とされる六段の階段ピラミッド、第四王朝初代のスネフェル王の建造とされる崩れピラミッド、赤ピラミッド、屈折ピラミッドが存在したとされる。その子であるクフ王が第一ピラミッドを、その子であるカフラー王が第二ピラミッドを、その子であるメンカウラー王が第三ピラミッドを建造したとされる。通常、ピラミッドは王墓であるといわれ、第一ピラミッドを除くこれらのピラミッドの内部構造は地下への下行通路と玄室といわれる地下室があるだけである。そして、第一ピラミッドにもそれらは造られている。第四王朝約120年の六人の王たちは親子の関係で王位を継いでいるのであり、ピラミッドの建造現場を見てもいただろうし、真正ピラミッドを建造したとされる四人の王の間ではピラミッドの意味、構造やそのデータに関する情報はかなり正確に伝えられる筈である。然るに、第一ピラミッドには地上部内部に他のピラミッドには全く無い構造が造られている。そこには王の間及び王妃の間と称される部屋があるが、当時、王と王妃を同じ墓に葬る慣習はなかったとされる。墓として必要な、或は、ある方が好ましい構造とも思えない。何故なら、それ以後に造られたとされる真正ピラミッドの何れにもそのような構造はないし、当時の墓で地上部分に埋葬室を造った例はないといわれているからである。又、下行通路は地下室に行けるが、上昇通路の入口は内部より花崗岩の巨大な岩石で塞がれていて、内部には砂が詰まっていたとされており、建造後に使用することは考慮にないと考えられる。これらを見れば第一ピラミッドとその他のピラミッドとは建造目的が全く異なると考えるべきである。又、これらのピラミッドの何れにも墓である証は何も見付かっていない。農閑期に農民に仕事を与えるのがピラミッド建造の目的との説があるが、それはピラミッド建造に必要な労働力を集める手段であって建造の目的ではない。建造されたピラミッドがもたらすと期待する機能効果が建造目的である。ピラミッドは権力の象徴であるとしても、親子で権力を継承している平穏な時代にあえて自分が権力者であることを誇示する必要もないであろう。これらの真正ピラミッドは第四王朝に造られたものではないと考えられる。
. . 第一王朝二代目のジェル王は第一キャタラクトのあるアスワンを越えて南に遠征し、第二キャタラクトに達したことを示す碑文が第二キャタラクトに残されているという。次のジェト王はシナイ半島に遠征し、その功績を記す碑文がシナイ半島にあるという。この時代に発見や功績を碑文に残す慣習又は名誉欲と言うものが既にあった。然るに、約400年後の第四王朝の間に建造されたとされる真正ピラミッドの何れにも碑文は愚か、建造者を示す刻印すらない。これらはそのような慣習のない時代の建造と考えるべきである。
. . 第一ピラミッドからは今まで発見されていなかった奥の方の小さな部屋からクフ王を示す朱書の悪戯書きが発見されたというが、それをクフ王が建造したことの証とするのはおかしい。それ程秘密にしなければならない極秘事項を記した物が発見されたのならともかく、悪戯書きでは発見者の贋作と考えるのが普通ではないだろうか。朱書の端のほんの一部が前の石の後ろに隠れているから建造中に書かれたとされているようであるが、隠れた部分に朱書の端が書かれていることをどのようにして確認したのだろうか。前の石を外して確認したのなら、同様にして書いた後前の石をもとに戻すことも出来た。或は、前の石が建造時からあったとも限らない。このようにしておけば建造時に書かれたと判断されるだろうと贋作者は考え、考古学者は見事にその策にはまっている。そもそも、王の建造物に建造中に悪戯書きすることなど許される筈もないし、一人で建造しているのではないから、前の石をはめるときに悪戯書きなどはすぐに発見されて消されると考えるのが普通ではないだろうか。もし、悪戯書きが許されているなら、至る所で既に発見されている筈である。贋作者の策にはまる方がクフ王の建造とする自らの主張の正当化のために好都合と考える考古学者が多いということかもしれない。第一ピラミッドはクフ王が建造したことを示す証拠は何もない。
. . 朱書きがクフ王を称賛する文面であったとしても、内部に封印しては意味がない。誰もが目にすることが出来るピラミッドの表面の化粧石に朱書などではなく刻字してこそ意味がある。第五王朝末期になるとピラミッド内部に文字が書かれるようになり、それはピラミッドテキストと呼ばれるが、殆どは呪文のようなものであると言う。しかし、第一章で述べたように自然科学用語としての解読、又は、自然科学に関する記録が神話伝説化したものとして解読することが必要である。これらがピラミッド内に封印されている理由は死者のための記録だからである。彼等は年をとると物忘れをすることを知っている。何時か死者が甦ったときに、忘れたことを思い出せるように生前の業績や世間のできごと、神話伝説等を記録し封印したものと考えられる。前節に述べた第一ピラミッドの建造目的からしても内部に文字が書かれることはあり得ない。
. . 次節Fig. 4.1及びFig. 4.2とその説明の本文に示すように、クフ王の時代には第一ピラミッドの内部構造は既に神話伝説として伝えられていたのであり、クフ王が第一ピラミッドを建造したということはあり得ない。

4. 巨大な石を如何にして積み上げたか

. .古代エジプト人は巨大な石をどのような方法で積み上げたのかは現在においても明らかになっていない。以前は、木製の起重機を作って使用したという説があったが、不可能という意見が有力であった。最近は、ピラミッドの周り、又は、ピラミッドと直角に、土や瓦礫を突きかためた山を造り、傾斜の緩い尾根道を登ったという説が有力になっているようである。しかし、これも実現性は乏しいのではないだろうか。ピラミッドの建造には二十年以上かかったとされる。砂漠と言う乾燥地帯で、砂嵐等にも耐える人工山を二十年間も保守することは困難であると考えられる。山に積み上げる土や瓦礫はピラミッドの体積よりも多く必要だろうし、石を積み終えた後、上部より化粧石をはめながらこの堅牢な人工山を切り崩していくのも大変な作業であろう。又、幾つものピラミッド建造に使われたこの大量の廃棄物を何処に捨てたのであろうか。
. . 古代エジプト人はこのような効率の悪い方法は使っていないであろう。もっと効率が良く、廃棄物も出さない簡単な方法がある。それはピラミッドの斜面を直接登ることである。彼等は巨大な石を橇に乗せて運んだが、橇は平地での使用よりはピラミッドの斜面を直接登るために威力を発揮するのである。ピラミッドの斜面は巨大な石の階段になっているが、この階段にぴたりとはまる木製のレールを造りはめる。レールの長さは一段又は二段あれば良い。レールにはブレーキとして木製の楔を打ち込む穴を開けておく。橇が上のレールに乗ったらブレーキをかけ、下のレールを上に運び上げ、また橇を引き上げる。この方法では2トンの石も約8割、即ち、1.6トンの力で引き上げることが出来る。又、引き上げる人たちの足場は階段の水平面に安全に確保できる。彼等がこのような方法で石を運び上げたことを示す証拠の絵も残されている。
. . 第一節で述べた伝言ゲームを絵を描いて行うこともよく行われる。最初の人に多少複雑であるが特徴のある物の簡略絵を描かせ、それを隣の人に見せて、制限時間内に何の絵かを推定して簡略絵を描かせる。このようにして十人程伝達すると、絵の上手い下手や思い違いなどにより絵は変化していき、何の絵か分からなくなることもあり、又、かなり変わってはいるが元の絵の持つ特徴は保たれていることもある。上に述べた証拠の絵もこのような変化を受け、神話、伝説と同じように宗教的な意味を表す絵として考古学では扱われている。吉村作治著「古代エジプト講義録(上)」よりその絵をFig. 4.1に示す。又、高津道昭著「ピラミッドはなぜつくられたか」より第一ピラミッドの内部構造をFig. 4.2に示す。但し、その頂上部は実在のピラミッドと同じように切り取ってある。

Fig4_1
Fig. 4.1
Fig4_2
Fig. 4.2
. . 文献の説明文ではヌート女神は天空を形作るとあるが、古代エジプト人は太陽は円軌道を描いていると考えていたから第一章に述べたような今日でも使われる様々な自然科学的物理定数を見出すことが出来た。彼等は天空がこのような形をしているとは考えていなかった。この図の元になった原図は第一ピラミッドの構造と建造法を表すものと考えられる。ヌート女神の作る形はFig. 4.2を見れば明らかなように第一ピラミッドの形を表している。その足の部分を登る船は巨大な石を乗せた橇であり、石を橇でピラミッドの斜面に沿って運び上げて積んだことを表す。腕の部分を下る船は化粧石を乗せた橇であり、ピラミッドの頂上から下に下りながら化粧石をはめたことを示す。
. . ヌート女神を支えるシュウ神の頭及び胴体は重量軽減の構造といわれている部分を表し、支える両腕及び肘から下を腰まで延長した線は南北の両斜面に達する通気口といわれるものを表す。ヌート神を支えるなら両足を開いて踏ん張るのが普通の形であるのに、横向きに両ひざを折って座っている。この足の部分は大回廊といわれる上昇路を表し、乗っている台座は水平に延びる通路を表している。その下に横たわるゲブ神は肘をついて上半身を斜めに起こしているが、これは地下室への下行通路を表している。
. . 原図はこのように神話伝説に変わってしまっているが、密閉されている第一ピラミッドの内部構造の特徴及び建造法を明確に表している。これらの神々の神話伝説が形成されるのは初期王朝時代とされ、クフ王より百年以上前である。従って、第一ピラミッドが建造されたのはこの時代より遥か昔であり、この図はクフ王が第一ピラミッドを建造したことを否定する証拠である。
Fig4_3
Fig. 4.3
Fig4_4
Fig. 4.4
. .ピラミッドの斜面を52°として階段に木製レールをはめて石を引き上げる際の力学関係をFig. 4.3に示す。石を引き上げるのに必要な力は、
W·sin52°=0.788W
である。このとき、石の下の角pを中心にして転がり落ちる方向に回転モーメントが働くが、橇の長さを長くして最後部が重力の右側になるようにすれば回転モーメントは働かず安定である。従って、橇の長さは石の一辺の長さの2倍以上とするのが望ましい。
. . 第一ピラミッドに積まれた石は各段毎に多少大きさが異なるようであるが、Fig. 4.4に示すように、レールの高さhを石段の最小の高さ以下に作り、それより高い石段にはめるときは、mの部分を石段の階段壁に当たるまで伸ばせるように可動式にしておけば良い。このとき、上の段にセットしたレールとの間にすき間が出来るが、橇の長さが十分長いのですき間を渡るのに何の問題も生じない。
. . この方法で石を運び上げるなら、ピラミッドの四辺から何列もの列をなして一斉に運び上げることが出来る。ピラミッドの建造が進み、上部の四辺の長さが短くなれば列の数を減らして余ったレールを縦につなぎ、縦に列をなして運び上げることが出来る。このような方法で石をピラミッドに積み上げるに要する時間は従来の推測値より遥かに短くなるであろう。むしろ、その時間はツーラやアスワンで石を切り出し、成形して、船で運搬して来るのに要する時間で決まると考えられる。

5.  ピラミッドの底辺の正確な長さと東西南北の決定

. .ピラミッドの建造において如何にして四底辺の長さ、及び、その東西南北を正確に定めたのかということも完全には未解決の問題とされている。正確な南北方向に正確な距離を測るには第一章「8. 太陽までの距離を測定する」で示したFig. 8.2及びFig. 8.3 の方法を用いる。 先ず、東西南北をFig. 8.2の方法により定め、線分EWと線分SNの交点をFig. 8.3のNとして、線分EW上に鏡の底辺の中心をNに合わせて乗せる。Nより東方南よりに30'の角度の線分を引き、1°Lの距離にQを定めて線分NQ上にもう一つの鏡の底辺をその中心をQに合わせて乗せる。このとき、中心角NOQは2δ=1°であり、半径はNO=57°17'48"Lであるがこれは230mであるから、

NQ=1°L=230m×3600"÷206268"=4m 1cm 4mm
に定めれば、太陽が南中に来たときOはNの真南230mの点になる。
Fig5_1
Fig. 5.1
. .Nより真東に230mの点を定めるにもFig. 5.1に示すように太陽の南中における反射光を利用する。Nにおいて南北方向に230mに定めた線分NOに対して45°に鏡の底辺を合わせ、上向き角度を調整して反射光を地面と並行にする。太陽が南中に来たとき、太陽光の地面への射影はONであり、反射光は直角にEへ向かう。NからONに対して東側に30'の方向に線分を引き、ONを定めたときの1°Lの半分NQ=2m 7mmの点にQを定める。QにONと45°の角度に鏡を置き、上向き角度を調整して反射光を地面と並行にすると、太陽光の南中における地面への射影はPQであり、反射光はNEと並行にP'へ向かう。そこでQにある鏡の底辺のONに対する角度を15'増すと、PQの入射角と反射角は共に15'減少するから南中におけるQでの反射光はQP'に対して南側に30'傾き、線分NQに直角となりEで交差する。従って、30'の角度に設定した二つのスリットを通してNとQの反射光を観測追尾し、太陽が南中に来たとき反射光を遮断して合図すれば、Eを求めることが出来る。QはNEを直径とする円の円周上にあるから円弧NQの中心角はであり、半径は115m、直径はNE=230mである。同様にして、Oにおいて真東に230mの点を定めれば正四角形が確定する。
. . 古代エジプト人は岸壁に掘って造った神殿や地下室の奥の方迄鏡の反射を利用して太陽光を導き、それを照明として素晴らしい彫刻や絵画を施したとされる。彼等は太陽光の反射光の利用に関して卓越した技術を持っていたと思われる。従って、ここで述べた程度の反射光の利用技術は熟知していたと考えられる。

目 次 へ6. 第一ピラミッドの設計へ