古代エジプト人の自然科学とピラミッド[update Chap. 1 Sec. 5 (6/07/'14)]
はじめに
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ピラミッドは何かを考えるとき、古代エジプト人の自然科学について知ることが重要である。現代の科学に匹敵する科学が存在した可能性は否定されるべきである。しかし、現代に迄彼等の自然科学の成果が受け継がれているものは沢山あり、それらの多くは当然の真実として使われているがその理由は解らなくなっている。例えば、一日は何故24時間か、一時間は何故60分か、一回転は何故360度か、水の沸点と氷点の温度差は何故華氏180度か、角度と温度は何故同じ単位名を使うのか、時間も同じ分と秒を使うのは何故か、等。これらの問題は古代エジプト人の素朴な考え方に基づいて自然現象の解明を試みないことには解明されない。第一章ではそれらの解明の詳細について述べる。第二章ではピラミッドは何の目的で、どのような設計により、又、どのような手段で構築されたのかを各ピラミッドについて詳細に述べる。 . .
古代エジプト人の自然科学と言う面からピラミッドは何かを考えるとき、その構築順序は考古学の主張とは著しく異ったものとなる。その順序は、第一ピラミッド、第二ピラミッド、第三ピラミッド、赤ピラミッド、屈折ピラミッド、崩れピラミッド、階段ピラミッドである。これ等の構築年代についても考古学とは異り、少なくとも真正ピラミッドと呼ばれるものは現在言われている年代より遥か前に構築されたと考えられる。1959年発行の英語版ブリタニカにはB.C. 4700頃とある。その後、参道や神殿等の附帯構築の推定年代からB.C. 2700頃に訂正されたと言われている。しかし、これ等はそこに神が造ったとしか思えない神秘的なものが存在し人々が訪れるから造られる。スフィンクスは此れ等ピラミッド構築以前から存在する最古のものであると考えられる。尤も、その後改造され、現在の形になったのは古王国時代であろうと思われるが。 . .
古代エジプト人に最も興味のあった自然現象は太陽、及び、太陽光線により作られる影の不思議な現象である。彼等は大地は平面で、太陽がその周りを回っていると考えていた。そこで一つの解明すべき疑問が生じた。何故太陽は大地の周りを回り、夏にはエジプトの上を回り冬になると遙か南方を回るのかと言う疑問である。そして、太陽は広い大地に隈無く等しい恵を与えるために順に走査しているのであると言う結論に達した。更に、夜は太陽は大地の裏を照らしているのであるから裏の大地が存在し、そこには人が住んでいるに違いないと考えた。そこで、彼等は大地の端、裏の大地への入口を求めて続々と探険隊を送り出す。陸地を行くにも地図も道もなく、舟は主として風まかせ、海流まかせの航海であり、彼等の探険は還ることの保証されない探険である。それでも彼等は続々と探険隊を送り出すのである。丁度現代の人類が有人、無人の宇宙ロケットを続々と打ち上げるように。斯くして古代エジプト文明は世界中へ拡がり始めるのである。 . .
やがて、幾何学や測量技術の発展により、彼等は太陽迄の距離を測る方法を発見する。これは実際には正しくなかったのであるが、彼等の思考の根底にある大地は平面で太陽がその周りを回ると言う前堤では疑う余地の無いものである。その結果、太陽は大地と平行に南北に移動しているのではなく、東西を結ぶ直線に垂直な面にエジプトを中心として描いた円の上部南側のほぼ45度の区間の円弧又は弦を移動しているであろうと言う推測に至った。そこで、何故そのような移動をするのであろうかと言う疑問が生じた。そして、その理由は矢張り大地に隈無く恵を与えるためであると考えた。そうであるなら、太陽は夏の真昼にはエジプトの大地にほぼ垂直な位置まで来るのであるから、冬に太陽が最も南にあるとき、真昼の太陽と回転の中心(エジプト)を結ぶ直線に垂直な斜面が遙か南方に存在するに違いないと考えた。この考えは間違ってはいないのであるが、その斜面は地球と言う球面の一部であることを彼等は知らなかった。彼等は、その斜面はエジプトの大地と何処かで交わっていて、その地点では一年に夏が二度来るであろうと考えた。そこで、その地点(赤道上空に相当する)を確認するため探険隊が送り出されるのである。 . .
太陽は東西に回転しているのであるから、南にそのような斜面が存在するなら東にも西にも同じ角度の斜面が存在するであろう、そして対称性を考えれば北にも存在し、大地は四角錐の四つの斜面と頂上部を切り取って出来る平面の五つの面で構成されていると考えた。第一ピラミッドはこれを表わしている。しかし、彼等はそのような斜面を発見できなかった。紅海を南下して夏が二度訪れる地域に到達し、還ることの出来た探険隊があったのである。そこで、彼らはそれ等四つの斜面は海中に没していてエジプトのある上部の平面のみが海上に出ていると考えた。この考えは神話、伝説として後の時代に伝えられて行く。考古学に於ても、世界は五つの大地からなり、四つの大地は既に海中に没してしまったとか、世界は四回滅んで現在は五回目の新世界であるとかの伝説が古代エジプト文明やマヤ文明にあることを述べている。ムー大陸やアトランティス大陸の話もその一つであろうと思われる。又、ナイル川の氾濫と一緒になってノアの箱船と言われる神話、伝説を現代に迄伝えることとなる。 . .
この大地の大規模なモデルを作る真の目的は失敗に終わり、権力の象徴として残され、ここにピラミッド時代が幕を開ける。満足な文字の無い時代であり、ピラミッドの真の意味は急速に忘れられ、エジプト南部の山岳地方を表わすものと考えられるようになり、その形態は権力者の出身地により変化して行く。第一、第二、第三ピラミッドは下エジプトを表わし、赤ピラミッドは上エジプトを表わし、屈折ピラミッドは下部は下エジプト上部は上エジプトを表わしている。ここに、上下エジプトは統一されて一つのエジプトになったのである。その後、権力は平穏に受け継がれることとなり、権力を誇示する必要もないのでピラミッドは作られることがなく、真正ピラミッド時代は終る。 . .
時を経て、再びピラミッドを作ろうと言う機運が起こり、ピラミッドは何かと言う議論に二つの考え方が持ちあがる。初めに優勢となったのはピラミッドは太陽光線を表わすと言う考えである。ピラミッドの角度は太陽光線の降り注がれる範囲を表わし底面は大地の一部であることを示すと考えた。屈折ピラミッドは其を更に発展させたもので、自動車のヘッドライトと同様に太陽光線はハイビームとロービームの二重構造を持つことを示すと考えた。ハイビームの範囲を示す底辺にエジプトが入ると夏になり、上部の緩やかな斜面の延長で示される範囲に入ると冬になり、両者の境界近辺では春と秋になると考えたのである。そこで、ハイビームを表わす部分の勾配を72度と急勾配にし、高さを高くした太陽神殿のオベリスクが作られた。この考えは後に巨大な一個の岩石で作られた柱状のオベリスクへと発展するのであるが、その前に、矢張りピラミッドはアスワン地方の山岳部を表わすと言う主張が優位を占めることになる。 . .
アスワン上流の探険が進み、第二キャタラクト(瀑布)が発見されたのを契機に屈折ピラミッドの屈折部はアスワンの第一キャタラクトを表わすと考えたのである。そして二段の階段ピラミッドが作られた。これはどこに作られたか定かでないが、六段ピラミッドの内部に埋もれているかもしれない。やがて第三キャタラクトが発見され三段ピラミッドが作られた。これは崩れピラミッドと呼ばれるが、その階段壁はオベリスクの勾配と同じ72度であり、風化によりこれ程精確な角度で四方が一様に崩れることは考えられない。更に、第四キャタラクトが発見されて四段ピラミッドが六段ピラミッドの位置に作られ、第五キャタラクトの発見により五段に増築され、第六キャタラクトの発見により六段に増築された。これをもって階段ピラミッドの時代は終る。何故なら、ナイル川にはもう他にキャタラクトは存在しないからである。第六キャタラクトの上流ハルツームでナイル川は青ナイルと白ナイルに分かれるが、白ナイルが遙か遠くのビクトリア湖につながることが発見されるのは飛行機が実用化された後のことである。 . .
ピラミッド建設の中間期、特に三段ピラミッド、五段ピラミッドの時期及び最期の六段ピラミッドの時期には大規模な探険隊が送り出され、世界の各地に階段ピラミッドが建設される。此れ等のピラミッドには彼等の郷愁が感じられる。長い航海に疲れた彼等はエジプトに帰ることを望み、ナイルのような大河川を捜し当てて上陸する。そこがエジプトでないことが解っても、舟の老朽化もあり諦めて現地人と家庭を持ちエジプト文明を発展させて行く。しかし、探険隊長等の権力者は自分の死が近づくにつれてエジプトに帰りたい、エジプトの地に葬られたいとの思いが強くなり、エジプトの象徴であるピラミッドに葬られることを望む。彼等にとってエジプトの象徴は真正ピラミッドより詳細に南部の山岳地帯を表わしている彼等の出発時点の階段ピラミッドなのである。従って、エジプト以外の階段ピラミッドにはエジプトに見られるような発達段階が見られない。 . .
1991年、島田泉、南イリノイ大学教授はペルーのシカンのロロ神殿の墓から一体のミイラを発掘した(黄金の都シカンを掘る)。それは西を向いて坐った状態で上下逆さに葬られていた。これは彼が古代エジプト人であることを示している。エジプトで太陽の昇る東を向いて立つと影は北側に出来るが、南半球にあるシカンでは南側に出来る。太陽は赤道での地球断面に平行に回転しているから北緯30度のエジプトでは地面にたいして60度の角度で回転している。従って、大地は平面と考えるとエジプトの裏の大地では影は南半球と同じになるので、彼は裏の大地へ来てしまったと考えた。そこで、太陽の沈む西を向いて坐り上下逆さに葬られれば、太陽の昇る東を向いて坐って表の大地、即ち、エジプトの地に葬られたことになると考えたのである。そして、御輿より上は裏の大地であることを示すために副葬品や生贄の遺体を通常の向きに葬ったのである。 . .
マヤ文明には時代の異る二種類のピラミッドが混在する。古いのはコンプレックスと呼ばれる東西に配置された一対の五段ピラミッドである。この西のピラミッドはマヤを表わし、ステラを前に配置した東のピラミッドはエジプトを表わしている。従って、東のピラミッドにはミイラが埋葬されているかも知れない。これを作ったのは五段ピラミッドの時代にエジプトを出発し、カリブ海を経て到達した探険隊と考えられる。一方、大神殿群を作ったのは六段ピラミッド以降にエジプトを出発し、各地の文明地を経て西から到達した探険隊又はその子孫と考えられる。彼等はエジプトのピラミッドが六段で終ったことを知らないから更に多段のピラミッドをつくった。しかし、彼等はコンプレックスの意味、特に東のピラミッドの前のステラの意味を知ることとなりマヤの地を捨てる。その意味とは何か、彼等は何処へ行ったのか、それ等については本文で述べる。
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